函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第6章 内外貿易港としての成長と展開

第4節 貿易通商圏の拡大

2 日本昆布会社の設立

 このようにして、明治24年の価格協議は難行の末一応の決着をみたが、これ以後会社の資金運用は益々苦しくなり、生産者に対する資金融通の遅滞や、前資金を約束手形で支払う例もみられるようになったが、三石郡における昆布会社との契約解除、根室組合では役員辞任をはじめ、前貸金の遅滞を理由とした生産者の組合離脱、さらに組合に加盟しない生産者の抜け売りや、清国商人らの昆布集荷への介在により、連合組合の一元集荷体制は著しく弱体化した。
 例えば、明治24年10月、札幌区斎藤承明氏が内務、商務両大臣と北海道庁長官に提出した意見書には次のような記載がある。
 「…如斯聯合組合一手販売ノ結果良好ナルニモ拘ラズ内生産者ノ団結未タ鞏固ナラスシテ輙モスレハ他ノ教唆スル所トナリ(中略)是ニ於テカ在留清人ハ機ニ乗シテ日本商ト結託シテ生産者ヲ籠絡シ以テ団結ヲ破リ再ヒ商権ヲ握ラン事ヲ図レリ云々」とあり、また「是等反対者(非聯合組合員。筆者)ノ生産スル昆布ハ彼ノ両三年迄生産者ヲ欺キ清商ニ奴役セラレタル所ノ仲買商ニ買収セラル、抑モ此仲買商ナルモノハ(中略)常ニ会社ノ閉鎖ヲ希望セリ、故ニ反対者カ生産スル所ノ昆布ハ自己ノ損失ヲ顧ミス之ヲ高価ニ買収シ甚シキハ製造ノ良否ヲ問ハサルニ至ル」と述べ、さらに、生産者について、「無智ノ生産者中往々目前ノ利ニ迷ヒ其干場ヲ他人ニ売渡シタルカ如クシテ聯合組合ヲ去リ(中略)、又ハ資金ヲ前借シテ営業セス営業スルモ其所産ノ昆布ヲ反対者又ハ無供者ニ密売シ甚シキニ至リテハ前借シタル昆布営業資金ヲ以テ他ノ漁業ヲ営ミ一朝不漁ニ遇ヒ昆布採取ヲ休業シ或ハ約束ノ船数人夫ヲ減シ、若シクハ前借金連帯責任ヲ脱センカ為メ中途廃業シ他人ヲシテ其義務ヲ果サシム」(前出『日本昆布業資本主義史』)とある。
 一方、会社側においても、資金繰りの困難に伴って生じた役員間の意見の不一致が表面化し、株主らも多額の不良資産を抱える会社に対して危惧の念をもち、会社の存続が危ぶまれる状況になった。すなわち、前述した24年の直立会議直前の役員会で、前貸金の資金繰りをめぐり役員間に意見の不一致が生じ、北村副社長は生産者の二重抵抗、抜け売り、密売などの不正行為を指摘して、連合組合との契約の継続に反対し、これに田中平八取締役も同調した。そして、欠損が拡大しないうちに会社を解散すべきことを主張した。これに対し、下村広敏取締役は、資金繰りは自らの責任において行うことを言明、鹿島万兵衛取締役も賛成し、このことを連合組合の堀総長に伝えている。
 同年9月、東京において臨時株主総会が開かれた。これは商法発布に基づく定款改正が目的であったが、総会において広田社長と北村副社長の辞任(田中平八取締役はこれ以前に辞任)が報告された。こうして官選社長は退任したが、定款改正により社長の職名が廃止され、専務取締役1名、取締役2名、監査役2名の役員構成をとることが決まった。かくして、新役員には、下村広敏が専務取締役に就き、取締役には鹿島が留任したほか、上海支社の支配人を勤めた赤壁二郎が就任。監査役には福原譲蔵、馬場郁太郎が選任されている。
 この官選社長の廃止について、当時の「函館新聞」(9月11日付)は、「創業以来既に二年を経過し今日にては事業も大に整理したれば此際官選社長を廃して公選社長となすもの」と簡単に報じたのに対し、かねて昆布会社に批判的な論陣をはっていた「北海」(9月15日付)は、「会社にして飽までも官庁に依頼し虎威を仮りて生産人を抑圧せんと欲するものならんには広田氏は実に有用の人物ならん。然れども此政略は既に業に失敗せるなり」として、道庁がこれまで生産者に対してとった行政介入を暗に批判しているのである。
 また、この臨時総会では、下村専務から昆布の集散地を函館から横浜に移し、東京支社も横浜に統合する計画を発表している。そして、その利点として、次の3点をあげている。
 
(1)函館を経由することなく、昆布を産地から直接横浜に輸送することによって運賃を低減しうること。
(2)船便(内外航路)の確保が容易になり商機を失することなく自由に輸出が可能になること。
(3)貯蔵昆布に対し、横浜では資金の融通が容易なことをあげている。

 
 このように、昆布の集散地を横浜に移転しようとしたのは、過敏な在庫の処分と資金繰りのためには、会社の経営を危ぶむ者が多い函館では協力が得難いこと、横浜の場合、居留外国商館からの資金借り入れも可能とみられたからである。横浜移転については、既にその準備として同年6月、同地に倉庫の建設に取り掛かっており、年内に10棟5万石収容の倉庫をつくることが計画されていた。
 この昆布集散地移転問題は、海産物貿易を中心に発展を遂げてきた商業港湾都市函館の経済界に重大な影響を与えることになるが、特に昆布流通に最も深い拘わりいもつ、海運、回漕、港湾荷役関係業者24名は、翌25年5月、日本昆布会社に懇願書を提出した。懇願書には昆布集散地の横浜移転は「我々当業者即チ汽船航運、回漕、艀下、人足方等ノ業ヲ執リ候モノガ直接ニ相受ケ候不幸ハ極メテ少カラズ又タ間接ノ結果トシテ函館ノ事業社会ニ波及セシメタル不景気ノ結果モ瞭々トシテ見ルベキモノアリ」(「羽原文庫」東京水産大学蔵)として関連業界に及ぼす影響の甚大なことを述べ、昆布集散地を従来通り函館に置くことを懇請した。しかし会社側はこの懇願を受けることなく横浜移転を実行した。
 
 表6-37 函館港昆布総輸出量
年 次
函館輸出量 A
函館輸出量 B
比率 A/B

明治22
23
24
25
26
27

95,581
98,250
51,380
67,838
49,292
99,752

114,061
102,721
102,084
133,276
124,540
138,850

83.7
95.6
50.3
50.9
39.5
71.8

 『大日本外国貿易四十一年対照表』および『外国貿易概覧』より作成.
 原史料は単位は斤であるが250斤=1石の換算により石で表記した.
 
 この結果、函館港の昆布の輸出額は、表6-37にみられるように、函館港の昆布の輸出量は明治23年には9万8250石で総輸出額の95.6パーセントを占めていたものが、翌24年には5万1380石、全体としても50.3パーセントに急減している。
 明治25年4月、昆布会社の株主総会が開催されたが、資本金の増資が決まり、50万円から100万円に増額された。新株応募の詳細は不明であるが、26年には公称払込額60万円、株主285名になっている(第8回『北海道庁勧業年報』)。
 同社は、この年、先の下村専務の公約に基づき第二十国立銀行の融資を受けることになったが、同行から客員社員として江南哲夫が派遣された。江南の派遣の目的は、会社業務の監査にあったようだが、同年6月、その報告書ともいうべき意見書を提出している。これは同社の業務内容を精査してまとめたもので、指摘事項は多岐にわたり、当時、同社が抱えていた問題点を適切に指摘した。この中、特に注目される点は経営財務に関する事項であるが、以下その要点を紹介しておこう。
 
(1)経営ヲ極メテ節減スベキコト
会社ノ営業費及ヒ雑費ヲ見ルニ冗費実ニ少々ナラサルカ如シ、昨年度ノ決算報告ニ由リテ之ヲ証センニ第一利子ノ項ニ於テハ四万五千円余ヲ費セリ、若シ資本ノ運転金融ノ都合宜シキヲ得ハ此項ニ於テ少クモ一万円余ヲ減スベシ、運賃モ亦然リ已ニ昨年度ハ船ノ使用法宜シキヲ得タリト誇称スルニ拘ラス、実ニ十五万円ヲ費ヤシタリ、…若シ今日ノ予算ノ如ク産地ヨリ横浜マテ五十円横浜ヨリ上海マテ三十円ノ平均ニシテ足ルトスレバ十三万石ヲ運搬スルニ十万四千円ニシテ足リ、其約スル所ハ五万円大数ナルヲ得ヘシ。…元来昆布ナルモノハ出産額ニ定限アリ而シテ買取リ販売価格ニモ亦定限アリ諸掛リモ之ヲ通算スベシ、故ニ一年間ノ商況損益ハ予メ計算シ得ルナリ今年ノ如キハ三万円少々余ノ外利益ナカルベキ計算ナリ、故ニ僅カニ一割前後ノ配当ヲナシ得ルノミ只タ経費節減ノ一途ヲ以テ利益ヲ増加スル外ナシ
(2)昆布積取及集散ノ法ヲ一定スルコト
已ニ昨日ヨリ施行セラルヽ如ク横浜ヲ以テ我カ社業ノ中央トセラルヽ以上ハ、一切ノ昆布ハ何レモ皆直接ニ産地ヨリ横浜ニ積取コトトナシ云々。(函館は単に産地と中央の連絡のための出張所として経費の節減を図ること、積取船は郵船会社と特約し正確と迅速を図ることが述べられている)
(3)従来ノ滞リ貨(前貸金)処分ノコト
本社ノ滞リ貸シハ実ニ重大ノ事件ナリ、三十万円ノ払込資本中ヨリ八万七千七百八十円ノ滞貨附金ノ出来タルハ実ニ容易ナラヌコトナリ、目下当社ノ株券ハ利息配当一割以上タルニ拘ラス殆ント払込額ノ半ニ低落セルハ主トシテ此滞貨ノアル為メナラサルハナシ…察スルニ生産者ノ如キハ従来ノ積弊ニ慣レ或ハ全ク貰ヒ受ケタルモノヽ様ニ心得又重役諸氏ニモサノミ心配シ居ラレヌカ如シ最モ不都合ナリト言フベシ、…
(「昆布会社社務ニ関スル意見書」東京水産大学蔵)

 
 このように、意見書は営業の杜撰さを指摘するほか、会計処理の適正化、未払資本金の解消など13項目におよぶ改善策を提言している。
 一方、連合組合側も、昆布会社の株主総会に前後して25年度の直立会議を開いている。この年の昆布の価格は、氷害の影響で減収が予想さていたこと、前年以来会社の存廃が取沙汰されていた経緯もあり、生産者の強い反対も無く、440円に決められた。ところが、実際の生産は前年を大きく上回り、会社の買付量も激増して在庫量も著しく膨張した。
 すなわち、26年4月現在の会社の昆布在庫量は約12万石に達した。これらは、一応売買契約済みのものではあったが、手付金のみの収入で、代金決済は翌年6月までに行われるもので、その間の資金繰りが問題になるのである。
 そのため、翌26年の価格協議で会社側は、過剰在庫を理由に、前年より20円低い420円を提示した。これに対し生産者側は、過剰在庫の存在は、会社側の販売努力の欠如にあるとして、前年並の440円を主張した。こうして協議は決裂し、生産者総代は函館を引払う事態に立ち至ったが、函館の遠藤吉平らの斡旋により、生産者の主張した440円で妥結することになった。