函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第6章 内外貿易港としての成長と展開

第3節 外国貿易の展開

2 居留外国商人の活動

 政府は日清修好条規を批准したのちに各開港場に領事が置かれるまでの措置として明治7年4月に「清国人民籍牌規則」を定めて各地方管轄庁に達した。すでに長崎では慶応2年に門牌・籍牌と呼ばれる戸籍登録を行っており(斯波義信「函館華僑関係資料」『大阪大学文学部紀要』第22号)、また兵庫県では明治2年から神戸に居留する清国人取締のために籍牌登記を始めていた。また函館では明治3年10月に開拓使が函館在留のポーターを雇い居留清国人の取締をさせた。これは横浜の例にならったものであるが、各国領事に自国の居留者で清国人を雇用している場合はその名簿を提出するように達している(「各国官吏人民触達拾遺」国立史料館蔵)。
 この籍牌規則は条約を締結したことで政府の外交政策の一環として定められたものであり、また清国領事の赴任までの暫定措置のためではあったが、そのねらいは清商の取締にあった。いわば清商の存在は未条約国の非公式な居留人でしかなかったものが条約締結により合法的な存在となった。従って従来のように条約締結国の商人から名義を借りて商業を営んでいたものが、邦商と自由に取引することが可能となった。

籍牌 『函館在留清国人籍牌書類綴』より

 そこで7年8月に市中の有力な清商に対して、籍牌規則の施行と日清通商条規の第9条の文面、つまり条約国として清商の独立営業が可能となったという旨を通知した。規則は9か条にわたっているが、日本滞在30日以上の場合は地方官庁に届書を提出して籍牌の交付を受けねばならなかった。そして翌年1月には籍牌の書き換えを義務付けた。また籍牌はその資産状況に応じて上下に等級を区分し、おおむね上等は独立して営業しうるもの、下等は雇用されるものとした(「開公」5795)。籍牌に記載する事項は姓名、年齢、本籍、生業、到港(来日)、住居の6項目であった。最初の籍牌登記の史料は現存していないようであるが、「函館在留清国人籍牌書類綴」や「清国官民文移集」(札学蔵)といった史料には明治13年以降19年までの籍牌の簿冊や申請者の一覧などが綴られている。なお函館支庁では籍牌申請のために居留清国人から総代を定めるように要請し、総代に奥書させるようにしたが、黄宗祐がその職についた(明治6~10年「海外行印紙願書留」札学蔵)。
 函館支庁はこれ以前の7年7月に市在に次のような達しを出した。「今般在留清国人民取締保護ノ為籍牌規則御定相成候ニ付当港在留同国籍牌授与ノ者共ハ向後当庁ニ於テ管轄候ニ付物品取引金銀貸借等直チニ本人ヘ相対約定為取替不苦候条此旨布達候事」(明治7年「評議録」国立史料館蔵)。つまり籍牌所持者とは他の居留外国商人と同様に商取引することが公認されたのである。しかし前述したようにこの人民相対の商取引は軌道に乗るまではやや時間を要したようである。
 函館支庁は籍牌規則の円滑な運用を行うために日本語と英語に通じている黄宗祐を7年中に試験的に採用した(「開公」5798)。そして明治9年10月に正式に清国人取締の事務のために月給60円で2か年にわたり函館支庁雇いとしての契約をしている(前掲「米露丁葡清国外国史料」)。黄宗祐は慶応3年に弘前の商人今井某と昆布の取引を行った人物であり(明治8~12年「民事第一審確定判決原本」函館地方裁判所蔵)、在函清国人としては比較的早くから来函した人物であった。もっとも資料上ではアヨンとかアユー(阿祐)の表記で登場しているが、明治7年の「評議録」には黄宗祐にアヨンとルビをふっているところから同一人物であることがわかる。彼は「己巳日記」にはデンマーク商人デュースとたえず同行している。『北海道人名辞書』には某外国商会の手代として来函し、後に独立して営業したとあるが、某商会とはデュースを指していると思われる。
 明治12年に成記号の藩荻州と仲買の橘清右衛門との間に訴訟事件が生じたため、横浜の清国正理事(領事)が来函して調査に当たったが、函館在留の華僑一同は正理事に対して黄宗祐に犯罪容疑があると訴え出た(12年4月20日「函新」)。黄はこの訴訟事件に巻き込まれその職から離れねばならなくなり、神戸に移った。この事件の背景には黄は広東省出身であるのに対して、函館の華僑は浙江省出身者が多くこの出生地の違いから黄宗祐を排斥しようする動きがあったという(『北海道人名辞書』)。
 通商条規の批准後、明治10年に中国公使が日本が着任したが、翌年には横浜駐在の正理事(領事のこと)が函館の業務を兼任した。各開港場には領事を置いたが函館は後述するように広業商会の設立により清商の商権が低下しており函館在留清商の活動も不活発であったため清国政府は領事駐在の必要を認めなかった。清国領事の函館駐在は明治25年まで待たねばならなかった。ところで12年の前記の事件の発生により横浜の正理事が来函したさいに函館在留の清商から函館は横浜からは遠隔地であるとの理由から理事相当職をおくようにとの要請があったので函館に董事職を置くことにした。函館在留清商の互選で張瑞文、〓永祥の2名がその職についた。そして清国人に係わる訴訟等や在留人の諸事務などの公的任務を行わせた(「明治初年外国往復文書綴」函館地方裁判所蔵)。董事職は公職ではなく民選でおこなうものであり、他の開港場にはない函館独自のものであった。その後正・副董事の2名制とした。13年は張の交替として万順号の顔仲元が選任されている(「函館在留清国人籍牌書類綴」)。