函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第6章 内外貿易港としての成長と展開

第3節 外国貿易の展開

2 居留外国商人の活動

 これらの外商の経営全体に関しては不明なことが多いが、在函のイギリス領事が各年の報告の中で個々の動向を報告している。断片的なものではあるが、これまであまり知られていないことなのでそれを中心にみてみよう。
 まず居留商社の動きに関する記事としては文久元(1861)年のエンスリーの報告にデント商会とリンゼー商会が安政6年の終わりから上海に向けて大量に木材輸出したが損失を被ったことを伝えている。リンゼー商会は先に述べたようにアストンが代理人であったが、文久元年にJ・H・デュースアストンに変わって代理人となった(文久元年「各国書翰留」道文蔵)。ちなみにデュースはデンマーク国籍であるが来函時にはイギリス人の扱いとなっている。これはデンマークとの通商条約が締結されていなかったためである。文久2年に関するヴァイスの報告では同年にクニッフラー商会と呼ばれているプロシアの商社の代表者C・ゲルトナーが貿易の目的のために来函したとある。ちなみにこのゲルトナーとは日本側史料にガルトネルとある人物であり、その後プロシア領事となる。R・ゲルトナーはその兄弟である。クニッフラー商会は『横浜毎日新聞資料集』によれば日本における最初のドイツ商社の1つであり、安政6年に拠点のバタビアから長崎に進出し、横浜には文久元年に出店するに至った。同商会は明治13年にイリス商会(C.Illis & co)と改称して今日に至っている。ちなみにイリス商会は明治20年代の函館の水道工事用資材の受注している。慶応元(1865)年のヴァイスの報告には清国において多くの商社が失敗し、それは函館の外国商社にも少なからず影響を与えたにもかかわらず函館の輸出は増加をみせたが、そのなかでもリンゼー商会が大量に輸出したことを述べている。
 文久3年に関する報告でヴァイスは「函館の通商にあまりあるいは全く期待できないという最善の証拠は次のようなことにみうけられます。つまり当港が五年前に外国人に開港されてから当地で商取引を行うことが得策であると考えて来函した商人はわずか六人にすぎず、そのうち支那における最初の(外国)商社の代理店である商人は、整理して去った。もちろん商売が引き合わないという簡単な理由からである。」。この商社はアメリカのウォルシュ・ホール商会を指している。このほかにブラキストン(これは西太平洋会社の事業)の製材業とその輸出に関して若干の言及がなされている。
 それでは彼らが貿易品をいかにして集荷したのであろうか。これも『イギリス領事報告』を見てみよう。
 文久2年に関するエンスリーの報告で安政6年から万延元年(1860)中の年度に貿易で莫大な利益を得た原因の1つにアメリカやイギリスの商社が多額の金を前貸ししたためであったと述べていることや、元治元(1864)年にポーターから領事に提出された書類に「日本における交易の特殊な機構、すなわち商社の番頭-それは日本人の店員と下級の仲買人-がきわめて不安定なものであり、ときどきその例があるが、特に金を前貸しする必要があるかもしれない契約の場合に、もしそのような機構を廃止することができるならば、申し分ないだろう。」との証言、またゲルトナーは来函後ただちに前金により南部商人と生糸を購入する契約を交わしたといったことなどから外商は資本力を用いて前金による取引を活発に行っていたようである。こうした前金による資金融通は生産や流通を刺激することになり、また後述するように明治期にも一般的な貿易取引では行われていた。また直接的な史料は未見であるが、時には仲買商人を産地に派遣して前金による買い付けも行ったと思われる。
 この前金による取引について一方では種々の弊害も引き起こしたようで、元治元年に来函した外国奉行とイギリス領事との面談で領事は函館の前金制度は横浜にはない制度であり函館に特有のものであるとして、このため取引にも支障を来すこともあると述べている。そして具体的に長崎屋や山田屋といった函館の豪商との取引に際しても前金がなければ取引には応じないといった例もあわせて述べている。また外商と邦商との取引には必ず番頭あるいは仲買が介在して、これも不都合であるとの抗議もなされている。ちなみに番頭あるいは仲買はその取引に介入して2分5厘を謝礼金として受け取り、こうした商業慣習は他の開港場では見られないとしている。そして領事は直接取引を有力商人が避けているという事例としてデント商会と福島屋との取引にも番頭や仲買が介入したことを述べている(「柴田日向守箱館行御用留」『函館市史』史料編第1巻)。仲買業務は元治元年の領事報告に「進んで仲買をする人が外国人の中にみつけられたにもかかわらず支那向けの輸出は前年比で減少」という記述にあるように、邦商のみならず在函外商のなかにも存在したようである。
 こうした前金制度に関しては元治元年に関するエンスリーの報告で「領事のたびたびの抗議にもかかわらず、契約に際しての前貸金という古い制度が今もなお存在しており、またその継続は契約の不履行のさいには全然賠償を得られることができないように外国商人にはかなりの損失の源となるものである」と述べられているように依然として継続された。いわば国内取引がいわゆる仕込み形態を取る場合が多かったように、函館では貿易の取引も類似の形態を取ったのである。
 これらの出先機関的な代理店を置いた商社は主に中国市場を取引の対象としていたが慶応二2(1866)年のアジア市場の混乱を契機に倒産あるいは撤退を余儀なくされた。例えばデント商会は慶応元年にオリエンタル銀行上海支店からの融資を断られたあたりから窮地に陥り、翌年についに倒産している(前掲『世界市場と幕末開港』)。函館においてもこの時期を挟んで同じ状況を呈して、代理店は次から次へと撤退していった。そのなかには商社の代理人であったものが函館に残り独自に貿易業を営むものもいた。例えばデント商会のハウルハウル商会を興しているし、ゲルトナーやデュースはそれぞれ個人営業を始めた。