函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第6章 内外貿易港としての成長と展開

第1節 国内市場と函館

2 デフレ下の函館経済界


北海道共同商会 『実利実益 北海道案内』より

 退嬰的な経営にむかいがちな不況下にあって、函館の商人、漁業家をはじめ、関係地域の商業資本、漁業資本を結集して函館に北海道共同商会が設立されたことは注目にあたいする。
 明治17年5月17日付で、設立願が函館県令に提出され、同月19日付で認可をうけた。定款にしたがい、杉浦嘉七以下11名を取締役に選出し、その互選によって田中正右衛門を頭取に推挙し、取締役の遠藤吉平が支配人を兼ねることにし、同年7月5日函館区仲浜町に開業した。『設立趣意書』では、商取引の悪弊と物資出入・集散の不均衡を指摘し、「余輩此ノ実況ヲ目撃シ、物品ヲ輸出スルノ方法ヲ改良シ、販路ヲ拡張シ、北海道米穀欠乏ノ患ヲ免レ、将来余輩一般人民ノ安全ヲ謀ルノ已ムヘカラサルヲ覚リ、此ニ共同ノ商会ヲ設ケテ之ニ従事ス」とうたっている。営業内容をみると、移出海産物、移入米穀を主要取扱品目とする委託売買、これに対する荷為替の取組、預託物品を担保にした貸付金、また、物品貯蔵のための倉庫の貸与などが主要業務であった。
 このような営業内容からみる限り、物資供給の便はともかくとして、商取引の悪弊の是正にどれ程効果をあげたか疑問である。それは、『函館区史』が「不景気時代の事として商業者も退守を事とするの外なかりしが、茲に特筆すべきは北海道共同商会の創立なり。……其初め取引所を設立する見込なりしも、時機の適せざるもありし為め、商会として仲浜町に設立し」と記しているように、本来、取引所設立が主目的であったためであろう。
 明治18年7月24日に分店営業願が函館県庁に提出され、8月11日認可をえ、同月15日函館区弁天町に開業した。海産物の取引における弊害を是正するために、分店が売買人双方の間にたって、いったん取り結んだ取引を確実に履行させ、手数料を徴収しようとするものであった。そのため、分店の営業規則には、売買できる仲買人を特約仲買人に限り、海産物の品目別の標準品を定め、取引を確実に履行するために証拠金の供託その他の手段を定めていた。この分店の営業が取引所に類似していることは明らかであり、そのため米商会所に類似しているとの疑問がだされ、営業開始から2か月にも満たない10月3日に分店廃業届を出さざるをえなくなっている。
 設立発起人には、杉浦嘉七、長谷川直則、山田慎、田中正右衛門、村田駒吉、野村正三、栖原小右衛門、佐野定七、渡辺熊四郎、園田実徳、泉藤兵衛、今井市右衛門、遠藤吉平、脇坂平吉、平田文右衛門、佐藤伊之吉、武富善吉、松沢伊八、林宇三郎、金沢弥惣兵衛、伊藤鋳之助と、新・旧の函館経済界の有力商人が顔を並べていた。また、明治21年12月31日調の株主名簿によってその構成をみると、公称資本金10万円で、株主数111名である(株式払込は5割、翌22年2月満金を募集して本株券発行)。筆頭株主杉浦嘉七の72株は、全体の3.6パーセント、10大株主の持株率も28.4パーセントにすぎず、多数株主が共同出資という名にふさわしい分散性を示していた。株主の所在地は、函館が圧倒的に多いが、道内の福山、江差、小樽、厚岸根室などから、道外の四日市、東京、青森や北前船の古里である加賀国江沼郡の諸村、等々におよんでいる。明治19年以降になると、道内の諸港で共同出資の汽船会社が設立されるが、それらの多くは、単に汽船海運による直接の利益を目論んだのではなく、それによって物資流通の円滑化をはかり、地域全体の繁栄を意図していた。その意味では、商取引の悪弊と物資出入・集散の不均衡の是正を企図した北海道共同商会は、これらに先行し、地域全体の繁栄を意図した共同出資の会社とみることができよう。3県期の不況下に旧場所請負人、特権的問屋商人の没落し、規制流通機構が崩壊するという混沌状態に直面して、新旧商人を問わず、地域に立脚した商活動の必要にせまられていたのである。
 商会の営業状態をみると、明治17年7月福山に代理店を設け、同年10月根室本町に根室支店を開業した。明治18年の函館分店の開業と廃業については、すでにみたとおりであり、21年8月には札幌支店、小樽代理店が相次いで営業を開始するなど、道庁期に入っても、活発な商活動を行った。
 内地米と本道の水産物の委托売買を軸に、それに関係する荷為替の取組、預託物品を担保とする貸付金、倉敷料の徴収を主要な業務としたことはすでにみたが、取扱品目は、そのほか、塩、酒、味噌、醤油、筵、雑穀、雑貨など多岐にわたっている。七重農工事務所、根室県庁、函館県庁、紋鼈製糖所、根室農工事務所、内務省監獄局北海道建築掛の御用達になったのをはじめ、明治19年にはコルサコフ日本領事館、釧路集治監御用達、また函館県庁より幌内石炭函館貯炭売捌方、紋鼈製糖売捌方を命じられ、さらに、同年には札幌屯田本部において根室屯田需要米の受負方を命じられている。
 初期の営業で注目されるのは、広業商会との関係である。明治17年7月厚岸方面の出産人総代林大助と同郡出産の官貸資金消流昆布の委託販売の契約を結び、同年10月には千島紗那郡同業組合、および同国蕊取郡漁業組合総代人である高城重吉、川畑庄助の両名と、その組合で収穫する総海産物の販売方と組合で消費する総需要品の買入方の委托契約を結び、前者は根室県庁に、後者は、紗那蕊取郡役所の承認をうけた。官貸資金消流昆布の委託販売は従来広業商会が取り扱ってきたものであり、総海産物の販売と総需要品の買入の委托契約は、恐らく仕込による委托売買契約であろうが、これも広業商会の生産資金貸与の変型とみなすことができる。明治17年には広業商会の経営はすでに行きづまっており、明治18年には経営を縮少しているが、共同商会の開業にあたって、函館西浜町所在の広業商会所有土蔵3戸を買い入れていることを考えあわせると、広業商会の業務を一部共同商会が受けついだとみることも可能である。共同商会は、広業商会の再生ともいうべき日本昆布会社が設立されるまで、その空白を埋める役割を果たしたかも知れないのである。