函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第5章 近代港湾の生成と陸上交通の整備

第5節 函樽鉄道

3 着工から開通まで

 第2次大戦後、アメリカ占領軍の民主化政策の標的の1つとなった建設請負業は、建物の設計工事と、土木工事に大分類されよう。建築業者は、大工など江戸時代以来の手工業者であり、自分自身が技術者であり、熟練工である。封建時代から、ギルドを結成、職人を養成してきた親方たちである。彼らもまた、1軒何円という形で請負契約を結ぶが、それは1つの商取引にすぎない。
 いま1つの土木請負業は、現代では大規模に機械化された、建設工業の総合であるが、それは第2次大戦後、アメリカからの技術導入と労働基準法、労働組合法などの労働立法によって始めて可能となった。
 戦前は、無技能労働者の大量投入によってのみ、工事が行われた。生産力は無技能労働力のみであるから、労働者供給を請負う労働者供給業又は人夫請負が生れ、都市では手配師、周施屋が活躍した。北海道では、とくに明治30年代から人夫請負業、周施屋が大活躍をする。なぜなら明治20年代以降産業革命が始まり、それは、特に、北海道における土木工事、特に鉄道工事の圧倒的な進展にあらわれ、そのことの核心が、すなわち労働力不足の充足(熟練、不熟練を問わず)にあったからである。
 これに炭鉱業及びその下請(組制度)が加わる。工事現場には飯場という労働宿が建てられており、労働者達は、そこで寝りして労働した。下請、孫請制度が普及したが、それは、単なる賃金ピンハネ、賃金の中間搾取を行う具体的形態に過ぎなかった。この人夫請負業の扱う労働者は、棒頭、小頭という労働者の末端管理者の下で集団をなして協業し、賃金支払形態は日給制、雇用形態は日雇制であった。
 その不熟練日雇労働者を主要な、ほとんど唯一の生産力要素とする形の請負業と鉄道の関係について、『道南の槌音』は次のようにいう。
 
日本で建設請負業らしいものができ始めたのは明治になってからで、その生みの親となったのは、当時、文明開花の担い手ともいうべき鉄道の建設工事であった。……(明治初年の)鉄道建設工事は、すべてアメリカ、イギリス等、いわゆる先進国の技術指導によって行われていたが、実際の工事方式は旧態依然とした封建時代そのままであった。……土木請負業の、初期の時代の直営工事に従事する職人、人夫等の供給は、旧幕府時代の賦役制度そのままで、とび職の親方、大工の棟梁、その他民間のいわゆる顔役を通じて供給されていた。請負業に至る道程はさまざまであるが、全国的にみてこれらの人夫供給に関係した人達が、やがて本格的な請負業となっていった例がかなり多い。……明治の前半、日清戦争の頃までは、請負は大工、とび職、石工、煉瓦工、土方、トンネル坑夫等それぞれの専門に分かれており、土工、橋梁、トンネルなど、ひとつの工事現場に数組の別種の請負者が入って、施工するのが普通であった。……その後親方達も経験を重ねるに従い、仕事の内容をのみこむことができ、次第に資金を確保していった。やがて、関連工事があれば、専門外であっても引き受けるようになってきた。たとえばトンネル工事であれば坑夫の親方、坑夫、斧指はもちろん、大工、石工、煉瓦工、とび、土木等、トンネル建設に必要な職工、人夫をすべて集めてトンネル工事全部を下請けするのである。さらに力が加わり、元請の手を離れ、飯場の食糧はもとより、工事材料、器械具まで用意でき、元請の仕事の一部、あるいは全部を下請けするものも出て来た。……しかし軌道の敷設や危険負担の多い特殊な工事は依然、直営方式がとられ、請負業者は人夫供給にとどまるのであった。

 
 この人夫供給という仕事が、無法者をごろごろ部屋で養っている、ばくち打ち、侠客に打ってつけであることは誰の眼にも見易い。まして人煙まれな「熊の出る開墾地」の土木建設工事に、当初から相当の集団の力、即ち、協業と分業を原則とする労働力を、一体、どこから、連れてくることができようか。前述の『道南の槌音』には次のような記事がのっている。
 「明治二年八月、地名を北海道と改めた開発経営のため、判官島義勇が派遣されたが、彼は赴任に当り、大工の棟梁伊勢屋弥兵衛、稲田銀蔵をともない、さらに箱館大野の侠客福原亀吉を招いて工事を請負わした」。
 「明治十二年、北海道最初の鉄道、手宮-札幌間の幌内鉄道建設に当り、函館の侠客末原某が、この工事に献身的努力をした」。末原の協力を、開拓使長官黒田清隆自ら、その官邸に末原を招き、懇請したとある。感激した末原は「さっそく函館にとって返し、配下を集める一方、檄をとばして侠客仲間の応援加勢を求め、新たに人夫を募集して大挙工事現場に乗り込んだ」。  
 函樽鉄道についての記事は「函館、小樽間の大工事」という項にまとめて説明している。以下これによって、必要部分を摘記する。

函館・小樽間鉄道全通当日の風景

 明治35年4月8日、全線路を6工区に分け、同年6月1日から着工された。しかし、明治34年のロシアのウラジオストック迄の東清鉄道の完成にあわてた政府、軍部の要求で、着工したばかりの工区を8区に再分割し、明治37年末を期限として突貫工事に突入した。第1工区となった亀田~本郷間は、今村浅次郎と村山源吾が56万7030円余で請負い、明治35年6月起工し、11月4日に竣工した。第2工区の本郷~森間は、橋本忠次郎、清水平吉、福田由松らが89万8900円余で請負い、35年7月起工し、冬期もしゃにむに継続して、翌36年2月迄に土木工事を終らせ、雪どけを待って軌条を敷設、5月末竣工。工事は難航した。第3工区の森~熱郛(歌棄)間は210万1180円余で、村山源吾、今村浅太郎、清水平吉、福田由松、星野鏡三郎、関政五郎、新見七之丞の7人が請負い、35年9月起工、翌36年8月竣工した。 『道南の槌音』には、以上の3つの工区にしかふれていない。あとは、「こうして八工区に分けられて着手した工事は、函館と小樽の両方から進められた、明治三十八年八月一日、ようやく完成した。」とあるだけである。思うに、以上の請負工事は、道南、とくに函館の業者が請負ったものと考えられる。もっとも同書には福田由松の小伝がのせてあるだけで、『北海道鉄道百年史(上)』に、残りの工区と請負人名が出ている(表5-17)。
 
 表5-17 工区別請負人と建設費
工区
請負人
建設費
第1工区 亀田~本郷
       函館~亀田
今村浅次郎 村山源吾

567,030.736
第2工区 本郷~森 橋本忠次郎 清水平吉 福田吉松
898,929.229
第3工区 森~熱都 村山源吾 今村浅次郎 清水平吉 福田吉松
星野鏡三郎 関政五郎 新見七之丞
2,101,182.011
第4工区 熱都~倶知安 新見七之丞 星野鏡三郎 関政五郎
丸山芳介 間猛馬
2,245,057.466
第5工区 倶知安~然別 間猛馬 星野鏡三郎_丸山芳介
2,294,966.134
第6工区 然別~蘭島 丸山芳介 徳本今吉
339,263.879
第7工区 蘭島~小樽中央関政五郎 徳本今吉 鹿島岩蔵
937,835.268
第8工区 小樽中央~小樽 
595,596.418

 『北海道鉄道百年史』より作成