函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第5章 近代港湾の生成と陸上交通の整備

第2節 港湾運送業の確立

2 ステベの興隆


東浜町桟橋の棄て辺人夫

 日本郵船は明治18年、三菱会社と共同運輸会社(15年7月、資本金300万円、反三菱の東京風帆、北海道運輸、越中風帆の3社合同)と合併してできた独占海運資本である。その有力分子の1社、北海道運輸会社は、明治15年3月、資本金50万円、堀基社長、函館運漕社内で、開拓使当時の附属船を政府貸下げで発足した。発起人杉浦嘉七、常野正義、園田実徳(函館支店長)ら函館の有力政財界人の総力をあげて創立した海運会社である。その運漕社というのは、明治7年、榎本六兵衛らが東京に設立した貨物運送会社で、支店を函館に置き、開拓使の金を貸与され、その附属船で貨物、乗客を運送した。いわば、開拓使の函館を本拠とした船会社である。したがって、共同運輸は、開拓使をバックとする函館商人団が、その中心の一角を形成していた。日本郵船のステベにも、三菱系でない、共同運輸系のステベもまたあったわけである。しかし、これはどこにも記録、文書がない。
 『函館海運史』には、日本郵船の明治時代の請負人として、滝野善三郎、佐々木市造、芝崎八五郎の3名をあげ、この3人で別に1組合を組織し、所属艀数48隻と記されている。このうち、三菱直系は、滝野組だけである。したがって、佐々木市造も、芝崎八五郎も、共同運輸系、函館商人資本系、あるいは、北海道開拓使系であったのではなかろうか。木下宏平によると、この3人、仲間割れを起こし、芝崎組はのちに滝野組に吸収合併されたという。また、元全日本港湾労組書記長、本間正吉の談話によると、佐々木組と芝崎組は共同運輸系で、芝崎と滝野の力の割合は2対1程度。芝崎八五郎が死去して、勢力が衰えたとされる。ちなみに、滝野組は、40~50人の人夫が1つの組を作り、関西相撲上がりの力持ちなどの実力者を親分として、親分子分関係を作り、親会社に対しては、絶対忠誠を誓ったといわれる。郵船の庭に石が置いてあり、それを背負う量によって1人1分とか2分とかの賃金決定の基準としたという。第2次大戦後、ステベ労働者のリーダーとなったウィンチマンなどは、50歳過ぎて働けなくなった人がやったということである。