函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第5章 近代港湾の生成と陸上交通の整備

第1節 函館港の変遷

2 函館港の行き詰まりと改修

 函館港が、蒸汽船の港として急速に発達するに及んで、「天然の良港」の限界が意外にも急速に現れてきた。100~150総トン(千石船)程度の小形帆船が、大型船と考えられる明治以前なら、まさに「天然の良港」であったのだが、500~1000総トンクラスの蒸汽船が、そう珍しくもなくなり、1日に何十隻も出入りする明治20年代以降の時代には、「天然」の地形自体が桎梏となる。どうしても、計画的人工港湾に改めざるを得なくなる。
 函館港の場合、その限界は明治10年代に見え始めた。それだけ、函館港が利用され、相対的重要性が増大したということであろう。その限界は大船の碇に必要な深さを持っていない自然条件という形で現れる。千石船(120総トン程度)の和船なら、水深4メートル以下でよいが、蒸汽船が普及するにつれて、干潮海面下の水深は、いよいよ増大することが必要となる。特に海岸が深ければ、岸にいよいよ近く碇しうるので、便利である。函館の場合、「明治直前の状態は、時にはほとんど浅瀬の観を呈した」(『函館海運史』)のであり、そこから出発したわけであるから、蒸汽船時代の港湾としては、人工の計画を必要とする不良の港湾になったといわねばなるまい。
 さらに、明治以来わずか10年にして、人為的に港湾填埋が増大し、帆船でも大型の場合、いよいよ沖に碇せざるを得なくなる。本来、接岸荷役を必要とする大港湾の条件にいよいよ程遠くなったのである。
 「人為的」というのは、『函館区史』によれば、「函館定繋の船舶は船中の不用物を港内に投棄し、函館山は樹々の濫伐、石材の掘採により、土砂を捍止すること能わず、降雨融雪に際し土砂を港内に流出し、亀田川の流末なる願乗寺川は平素泥砂を港の要部に注ぎ、殊に春雨朝霧の候濁流滔々たるに至りては、夥しき砂泥を港内に停蓄し、之が爲め港底の埋没すること年に四寸内外に及び船舶は次第に岸に遠ざかりて投錨せざる可からざるに至れり。而かも日本形船時代にありては、之が患害を感ずること猶お未だ多からざりしと雖も、吃水深き汽船の出入り頻繁なるに従い、其不便漸く甚だしきものあり。」ということである。
 明治5年、函館港内国船碇取締規則を以て塵芥、土石、石炭、灰燼など碇場の障害となる物品を港の界内に投棄することを禁じ、函館山の土砂流入防止のため、杉松などを数多く植栽した。また函館区需要の石材を函館山から伐採していたが、11年に全く伐採を禁止したのも、港底埋没防止のためである。しかし、明治11年11月、12年12月の大火のため、一時、禁止規定を緩和したが、19年3月再度全面禁止となった。
 人為的原因の外に、もう一つ流砂という自然的原因が加わっていることが調査の結果、明らかになった。明治16年、函館県の時代、県令が港内調査をした際、内務省に技師派遣を要請、これに応えて同省雇技師モルトル(Mulder, H. L.R. )が来函した。モルトルは明治政府がオランダから招いた港湾技師6人の1人で、明治12年3月来朝、23年5月満期帰国した。その調査の結果「明治十二年露国軍艦フサジニク号が始めて測量したものに比べて、平均五尺二寸余の土砂が埋積している事実が判明した。その後二十六年北海道庁が築港の大策を建てるため御雇技師メークをして実測させたが、一か年の埋没平均五六寸以上になっていることがわかった」(『函館海運史』)のである。
 明治21年7月メークは、道庁の命により道庁技師福士成豊と共に函館港を調査、港内填埋の原因として、(1)船舶より塵灰を投棄し、(2)市街の下水より固形物を排出し、(3)西及び北西風の為め海岸に移流する砂その他の軽量の物を堆積することを挙げ、浚渫を施し、改修を加うべきことを切言している。もはや「天然の良港」は、蒸汽船時代には、「天然の良港」ではなくなっており、それ以上に「天然の良港」を理由としての船舶の利用、船舶利用を理由とする人口の増大、これによる市街地の拡大が、人為的に港湾を悪化せしめていたことがわかったのである。それと同時に、港湾区域の北西部への拡大が亀田川移注による願乗寺川の新設を必要ならしめたが、この川が今や、10数年前と打って変り、港湾条件の悪化を招き、引いて函館の経済条件の悪化の原因を作ってさえいることを発見したのである。