函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第4章 都市形成とその構造

第4節 明治期の都市構造

2 都市整備における主体者の変遷

 公による都市整備は、主に土木工事関連事業に対する財政投下であったことは先に述べたとおりである。また本章においては、その説明に大部分を費やしたこともまた事実である。しかし、本来の都市整備はそれを基盤としながらも、多くの他の要素が付加されてこそ都市機能を保有することができるのであり、その点については他の章で説明されるはずである。ここでは学校、病院などの設立や馬車鉄道、鉄道、船渠などの経営なども含めて、都市整備における区民(有力商人)や民間資本家が、どのように参画していたかを概観し、その主体者の変遷を説明するものである。
 さて、都市整備の経過は図4-22のような構造をもちながら、大筋で3期に分けて考えることができる。1期は開拓使と有力商人との協力によって、函館公園、公立病院などを設立し、鶴岡小学校については有力商人のみの力で設立された。この時期はこれら商人の寄付行為により、教育、衛生面の施設が建てられた。特に渡辺熊四郎を中心とし四天王と呼ばれた、今井市右衛門、平塚時蔵、平田文右衛門らが各事業の窓口となり三菱商会、広業商会などの会社や、銀行などの賛意を受けながら区民層による都市整備がなされていたのである。また明治10、20年代を通して杉浦嘉七も渡辺熊四郎と同様に、区会議員としての要職にあるばかりでなく、多くの事業の委員として都市整備に参画した重要な人物であり忘れることができない。

図4-22 都市整備の主体者からみた概念図

 次の2期については、北海道庁主体より、函館区主体への移行期でもある。この時期の都市整備は水道施設に代表され、有力商人の寄付によって施行できる予算規模を大きく越えていたことが指摘できる。そのため公債発行により事業の展開を計っていた。その最初の事例として、水道創設の際の公債募集については、それまでの様相と同様で区の有力商人と銀行、会社関係の人たちで占められていた(明治21年3月20日「函新」)。しかし、第1次拡張工事の公債については、日本郵船、帝国生命保険、相馬哲平などの大口応募者があり、徐々に区内の経済力だけでは処理しにくくなったことが推察される。つまり、公債の当初の応募額が40万円余にのぼりその約60パーセントが東京の会社や在住者によって、構成されていた(「雑記之弐」『伊藤鋳之助文書』)。
 このことが顕著にあらわれるのが3期であり、民間事業による都市整備への参画が認められる。つまり北海道鉄道株式会社や馬車鉄道株式会社による資本の投下が、都市形態に影響を与えつつある状況を若干説明したとおりである。しかし、ここでは主体者の変遷という視点から、それをより具現化している函館湾改良工事と函館船渠株式会社の創立との関連について述べることにする。 
 函館湾改良工事は、北海道庁の補助が、当初よりもさらに減額して20万円となり公債の発行を増加しなければならないことは、前にも述べたとおりである。この影響もあり、当初函館船渠を函館区の直営とする計画も立てられたが、それには50万円以上の公債を起さなければならなく、財政運営上困難という判断に至った。そのため会社を組織して、資本金80万円とし大船渠築造金40万円は補助金を仰ぐ予定であった。しかし、この補助金の請願も許可が得られず、函館地元商人による資本参画と補助金のセットで考えていた会社構想は、実現しなかったのである。
 
  図4-23 函館港改良工事公借金

 
千円
函館市
42
9.0%
東京市
368
78.6%
大阪市
31
6.6%
その他
27
5.8%
合計値
468
 

 『函館港改良工事報文』より作成
 
 このような状況の中に参入してくるのが、東京の実業家を中心とする大手の資本家たちであった(『函館船渠株式会社四十年史』)。その結果、両事業の実質的主体者は、民間資本家たちとなり地元商人の割合は減少した。函館湾改良工事についての公債発行についても「元来今回公借金募集につきては始めより本道に重きを置かす、主として東京及び大阪より募集するの心算齟齬せす東京に於ては頗ふる好況なる旨過般上京したる平田文右衛門氏より函館区役所へ通報ありし」(明治29年6月1日「樽新」)とあるように、その目的の達成がなされたことが図4-23からも推察できる。これらのことは、民間資本家にとって函館が港湾都市として投資の対象都市として認知していることの証左でもあろう。
 以上のように明治期の都市整備を3期に分け、主体者の変遷をひとつの視点として説明してきた。このことは同時に投資財から事業の展開を説明することをも意味し、図4-24により概念化してみた。この図より事業の規模の拡大化とその主体者の重層性も認められるのである。
 最後に、幕末期に対する明治期についての「場」の構造のイメージ化は、図4-25のとおりである。ここでいえるのは、函館が北海道経営という国レベルでの命題の中で、その位置づけとその際の財政力の矛盾を、どのような形で克服してきたかについてのイメージ化である。しかしその矛盾は結果として、逆に函館の都市経営の思考を知ることにもなったのである。そして広義的に自治意識という観点から見た場合に都市形成の主体者として重要な役割を担った地元商人の先進性については、再度評価できるのではないかと考えている。つまり幕末期において希薄であった地域性、つまり市中圏への社会資本の投下がこの明治期において格段に進展したことを意味している。まさにこの時期の都市形成は、都市基盤整備に主眼があったことが理解できるし、後期での財政負担の肥大化はこれに都市機能を付加させるための選択によるものであることが想定できるのである。

図4-24 投資財からみた事業の展開


図4-25 「場」の構造圏図