函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第4章 都市形成とその構造

第3節 都市基盤の整備

4 生活環境の様相

 この時代に出された布達は伝染病の発生の予防として位置付けられていることが多いことは前述したとおりである。ここではこれらの布達との関連の中で市街地の塵芥、糞尿、下水がどのような状況にあったかを述べてみたい。
 まず、塵芥については、明治3年2月29日の触書によれば「以来町々申合塵芥都て不潔の物等は山背泊り土取跡、大森道芥捨場両所へ急度可取捨事」(明治2年~5年「諸用留」)とあり、2か所が捨場所として指示されていたが、同5年9月7日の達書によれば8か所に増えている(御達留(抄)『函館市史』史料編第2巻)。その後明治11年には次のような布達が出された。
 
 函館市街塵捨場ノ儀是迄大森浜ヘ壱ヶ所相定置候得共、自然持運ビノ労ヲ厭ヒ各自居住地内或ハ明地等ヘ放棄候向モ有之、右ハ健康ヲ害シ候ニ付更ニ左ノ各所ヘ投棄可致此旨布達候事
  明治十一年六月十三日
           函館支庁
             開拓権大書記官時任爲基
    元町船魂社側  花谷町登り詰山麓
    台町山麓   上汐見町水元西手
    東川町裏手    蓬莱町女紅場側
 
 そしてこれ以降に人民相対で塵芥を収集する塵捨共賛講、塵捨社という会社などが登場してきた(明治13年8月12日「函新」、明治14年「願伺届録」道文蔵)。またこれらによって収集された塵芥の一部は、大森浜にてかまを利用して焼却していたのである。
 その後、塵芥捨場も変更があるが明治19年の次の告示により当時の様子を知ることができる。 
 
 当区西川町六十三番地平民新妻鷲蔵儀、当区東川町海岸ヨリ大森浜沿岸迄波止ノ為メ自費ヲ以テ堤防築造致度旨其筋ヘ出願候処、今回許可相成候ニ付テハ従来設置ノ塵焼場五ヶ所ノ内左ノ四ヶ所ハ当月限リ相廃シ、更ニ該堤防築造線路を塵芥投棄場ト相定メ候条、爾後右ノ個所ヘ塵芥投棄可致此旨告示候事
 明治十九年四月三十日          函館区長
      塵焼場廃止ノ箇所
一 元町(裁判所西手裏通)、一 宝町、一 東川町、一 大森浜
(明治十九年五月一日「函新」)

 

明治10年代の大森浜方面

 これに対し糞尿については明治15年6月11日布達により、東川町288番地と台町共有墓地42番地内の糞尿溜場へ取捨ることが決められていることを知見できるだけである(『函館縣布達達全書』)。これ以前については、各自が近郊の農民との契約によって、需給の関係の均衡が保たれていたものと推察できる。
 その後、明治22年度予算の中で塵芥については「大森浜砂地埴林見込所ノ内人家遠隔場所ヲ撰定シ、塵芥捨場ヲ設クルコトアルヘシ」と記載されており、糞尿については決算書の中で該地が不適当となったため「糞尿投棄場所新設費」が含まれており、この時期に居住空間が拡大したために投棄場所の移転が必要となってきたことが、類推できる(明治27年~36年「決議書綴」)。
 さて、下水道については北海道庁による都市整備事業としての、亀田川転注と願乗寺川の埋立についての工事が終了した翌年にあたる明治23年から、継続事業として工事が始められた。この工事の内容は「二十間坂より起り末広町大町弁天町等を貫ぬき砲台の前を通過して外海に注入することとし、今一線は相生町交番所即ち北海坂より起り蓬莱町寳町等を経て大森浜に至り是れ亦外海に注入する」(明治23年5月21日「北海」)ものであり、6月15日頃より工事に着手し、明治25年中に落成する見込でその工費は約7万円の予算で、本年度分は1万5000円の支出を見込んでいた。しかしこの下水道工事は結果的には、先の工事の前者を1区後者を2区と分ければ、1区工事の途中で中止となり下水道としての機能を果たさず、工費の効果を得ることが出来なかった(明治24年4月15日「北海」)。またこの時期は、商人が自費により下水工事を行っている例も、当時の新聞などから散見できる。
 その後明治34年9月の汚物掃除法の施行とともに、塵芥処理については区営に移ったが、当時すでに捨場も狭くなったため東川町231番地から233番地までの1890坪の官有地を借用して捨場とした。塵芥の運搬投棄は各衛生組合に請負わせたが、中には区の直営の区域もあった(『函館区史』)。また焼却によってできる灰を農家の肥料に売却する事業も直営で行い、明治35年においては200円余の収益をあげている(明治27年~35年「決議書綴」)。このような実績からか、翌年明下良蔵ら2名が塵芥捨場に焼却釜を設けて可燃性塵芥を焼却し、加里肥料として販売したい旨の願い出があり、許可された(明治37年11月8日「函新」)。
 この頃になると明治22年にみられた廃棄物処理に関連しての社会問題が、再び浮上してくる。そのひとつが継続事業としての下水改良工事の必要性で、函館新聞によれば「当区に於ける下水溝渠の設備不完全なるが為には衛生上に及ぼす害毒極めて大なるものにして、毎年特発する当区の伝染病の多くは畢竟此下水溝渠の不完全なるに基因し胚胎するものなり」(明治36年11月13日「函新」)と、生活環境整備の遅れを指摘するとともに、その着手のための調査をすることを促している。もう一点が塵芥焼棄がま移転問題であり、東川町を中心とする住民運動に発展した。この問題は焼棄がまによる臭気と、灰粉飛散による公衆衛生上の被害を周辺住民が北海道庁に陳情した。これに対し函館区では、塵芥焼棄営業者への損害賠償や移転にともなう予算の増大化を懸念してなかなか判断を決めかねているのが実態だったのである(明治38年8月25日「函新」)。
 さて、函館は港湾都市として都市形成が進展しつつあることは前述したとおりである。これにつれて人口が増加し生活環境の整備が急務となり、まず上水道が敷設された。その後の人口増加が第1次拡張工事を誘引したことも述べた。このような生活用水の増加は当然排水も増加させ、下水の整備が急務となったことも当然といえよう。つまり廃棄物投棄が社会問題として2度のピークを経験しているが、このことと上水道整備時期とが符合することが把握されるし、その関係をより現実的に知ることができるのが、居住空間の拡大ということになろう。そして今後ともこの両面の社会資本の投下がどのような政策として位置づけられていくか重要な課題であろう。