函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第4章 都市形成とその構造

第3節 都市基盤の整備

2 埋立地造成にみる二面性

 明治11年、12年の大火の街区改正は、現在の十字街あたりから西側にあたる当時の旧市街の景観を一変させた。これ以降この改正に追随する形でその他の市街地も、大火・道路改正・埋立などによって整備されていくのである。
 さて、谷地頭町は明治初期にあっては湿地帯であったため、宅地に適さない土地がらであった。当地を視察した当時の開拓長官、黒田清隆が宅地不足もあるので政府事業として谷地頭の埋立を行うよう指導したのが、実質的な市街地のはじまりだったのである。当地は明治11年の大火後にあっては「道敷地坪買上ヨリ宅地差支ヲ生スル者ハ懇致ニ説諭シ、谷地頭埋立地竣工ノ上、売下転居セシムヘシ」(『開事』第2編)とあるように、街区改正の内容に含まれていた。しかし大火にともなう他の工事の増大によるものか、この事業は遅れを生じ明治14年10月竣工している。  

谷地頭埋立工事 北海道立文書館蔵

 この埋立工事は、5万坪を買上げ2万3000余円をかけ、このうち3万坪が入札によって払い下げられた(明治12年「谷地頭埋立及開鑿道路ニ係ル民有地買上書類」道文蔵)。これによって谷地頭は様変りし、「谷地かしら公園抔へ散歩の人も多く浅田屋の七色・柳川の蕎麦を当込む女連中もあれば勝田の温泉に浴する人も多く」(明治16年9月24日「函新」)とあるように、谷地頭での温泉や食事を楽しむ人のにぎわいを感じとれる。また当地は明治16年には貸座敷の営業地の許可がおりているし、渡辺熊四郎、金沢彦作などの商人の別荘地でもあった(明治16年10月3日「函新」、『初代渡辺孝平伝』)。
 次に、明治12年の大火後の街区改正以降問題にされていたのが、港内への土砂の流入により、港内の水深が浅くなる傾向にあった事であった。その原因は亀田川の土砂が港内に注流していることが考えられ、北海道庁が亀田川の転注を計画し、明治19年3月に起工し、工費10万余円をかけて翌20年11月に竣工したる(『函館港改良工事報告』)。この工事により、「当時日々出稼の人数は凡二千人皆区内の日雇稼人なれば最寄近傍へ転宅して亀田中の橋近辺・大縄町・音羽町・東川町辺の明家は一軒もなく」(明治20年6月24日「函新」)という町の様子が知れる。  

願成寺川から函館山を望む

 亀田川を外海に転注した結果、願乗寺川は自然廃河となり、塵芥物が堆積して衛生上も好ましくないので埋立が必要となり、明治21年に着手し同22年に完了した(『函館区史』)。この埋立のうち、恵比須橋川筋より蓬来町元女紅場までの埋立がなされた後は、道幅8間の一直線道路に改正されており、現在の銀座通りにあたる(明治21年5月11日「函新」)。この埋立地の道路改正により当地は「新規に家屋を建築せしが最早何れも立派に出来あがり、小間物店飲食店等軒をならべて見世物、諸興行数ヶ所あり、又女紅場堀の跡へは東京より来る可き大相撲の小屋かけに着手せり、同地近傍は恵比須町蔵前とも夜分人出多く甚だ賑へり」(明治22年6月9日「函新」)と埋立地の繁盛を伝えている。
 また願乗寺川の埋立と前後して、明治18年の大火の際恵比須町より末広町までの道路改正により、東浜町より蓬来町への通り(現在の十字街の電車通り)が改正されており、明治20年の大火では西川町から地蔵町へぬける道路の改正が行われた(明治17・18年「道路改正一件書類」道文蔵)。
 以上の事業は北海道庁によるものであるが、最後に願乗寺川埋立に関連しての函館区の事業にふれてみたい。函館区は亀田川の転注により、願乗寺の埋立が予想された明治19年4月の段階で、北海道庁に対し倉庫地として願乗寺末流にあたる敷地の払い下げを請願した(明治18年「臨時区会決議録」)。これに対し北海道庁側より「一、川敷埋立ノ儀ハ亀田川堀割工事竣功ノ後着手スベシ 一、倉庫ハ煉化或ハ石造等火災予防ニ注意スベシ 一、坪数ハ埋立実測ノ上割渡スベシ」という条件により許可された。その後、明治21年6月に埋立に着手し同年9月に落成し、函館区有地として引渡された(明治21年「通常区会決議録」)。当地は船場町にあたり1404坪余で1万0113円余になり、100坪につき720〇円の地価の査定を受け、民間に貸渡されている。