函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第4章 都市形成とその構造

第1節 幕末・明治初期の都市形成

2 外国人居留地の成立

 大町築出地の意味はその性格を明確にしえないまでも、漠然とした雑居の様相を持っていた居留外国人の中に一定の外国人だけの空間を設定したことには違いはなかった。このことによりそれ以降の箱館奉行の対応にも違いがみられるようになった。その好例として、英国商人ポーターの山ノ上町新地に借用していた畑地に家を建てたいという要求に対する応対があげられる。この応対により逆に大町築出地の性格およびこれまでの応対の矛盾などが露呈することになった。
 このポーターの家作の要求に対し、文久元年6月27日の応対によれば村垣淡路守は「素々商人共所々に散在候ては不都合に付一か所に取纒候様政府より御差図有之候間、先達て談判の上築出地において地所割渡申候、建物いたし度候義に候はば同所へ取建可然候」と商人らを1か所に集めておきたいことが理解できる。当然ポーターは、大町築出地に借地を保有しているのであるから、山ノ上新地への家作は認められないのが奉行側の意見であった。
 7月2日においても同様の応対がもたれており、ユースデンは「築出し地所は至て狭く蔵より他は家作取建不相成候」と大町築出地の狭さを指摘し、村垣淡路守は「右地所狭く不都合に候はば相談の上外にて増地貸渡し可申、何分壱人二ヶ所貸渡しにては神奈川・長崎へも差響き不都合に有之候」と増地の考えがあることを示唆した。
 この応対から、前述の奉行の意見が一歩現実味をおびたことがわかる。つまり、大町築出地だけの居留地化から1人2か所の貸渡しを許容しない考え方への変更であり、そのために物理的な制約から大町築出地以外にも貸渡地を用意しなくてはならないことも間接的に認めることになったのである。
 さらに、同日の応対の中でこれまでの貸渡地の計画に変更のあったこともわかる。つまり、ユースデンの「地所を充分に御貸し無之候はでは家蔵とも出来不申、江戸表にて築出し地図一見致し候所只今の三倍も有之候」という認識に対する、奉行の応対は「江戸表にて被見候はば最初二ヶ所の節の図面にて其後不弁利に付、右を一ヶ所に取纒築出相成坪数に相違無之候」という変更にすぎなかったことを説明している。
 このような居留外国人への貸渡地の計画変更は、機能面での変化がまさに面積の問題へと帰結していくことになり、「当初築出地の義は素より蔵所の事にて居住地に無之と承申候」というユースデンの文言に集約される。これに対し、奉行は「此方にては蔵地に不限居住も為致候心得に有之、既にオールコック談判にも蔵家の差別は無之、其上弐拾ヶ年位は右地所にて差支無之旨申聞候」と両面において問題はないと反論している(文久元酉年7月ヨリ12月迄「応接書上留」道文蔵)。この応対にみる両者の行き違いの原因は、万延元(1860)年の「応接書上留」より知ることができる。つまり、ユースデンに対応するのは勝田伊賀守の意見で「尤此地居留地には無之、蔵地と申義に心得居申候」であり、村垣淡路守に対応するのはオールコックの意見で「尤拾年弐拾年は今の地丈にて候、勿論私一了簡故」ということになる。
 つまり、このような面積の問題を生んだのは、前述の2点より起因している。ひとつは、函館における居留外国人の増加を両者があまり考えていなかった点である。外国側には「人数の事只今より御懸念には及ひ不申、箱館は商売には不弁にて多分相越申間敷候」(万延元申年「応接下り物留」道文蔵)という判断もあった。もうひとつは、築出地の性格の認識の違いであり、大町築出地を単なる蔵の貸渡地と位置づけるか、外国人居留地と位置づけかの問題により、同地の大きさの認識が相対的に変ることになったのである。
 さらに、幕府側の大町築出地の外国人居留地としての認知は外国側にとって新たな疑問を生むことにもなる。つまりユースデンからの「左候はば是迄在留商人共所々に散在候義は何とも御沙汰無之、只今に至り一ヶ所に取纒度由被仰聞候は如何訳に候哉」という質問に対し、村垣淡路守は「地所取極無之已前の事故、仮住居に有之候」と今までの雑居の形について「仮の住居」という認識を示したのである(文久元酉年7月ヨリ12月迄「応接書上留」)。
 以上のとおり、数多くの矛盾を内包しながらの外国人居留地の実質的な成立は、雑居地の整理を含め新たな居留外国人を収容する地所が必要となったことをも意味することになった。