函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第4章 都市形成とその構造

第1節 幕末・明治初期の都市形成

2 外国人居留地の成立

 函館は安政5(1858)年日米修好通商条約の締結により、翌年には貿易港として外国商人の商いの場となった。これにより、海岸の場所が外国人にも必要となり、貸渡地の要望がでてくることになる。

大町居留地分割予定図

 これに対し箱館奉行側は、海岸線については市中商人の利便もあり、なかなか貸渡地が用意できずにいたので、対処策として海面の埋立が考えられた。途中の経緯は前述してあるので省略するが、大町築出地はこのような時代背景の中で2000坪の規模で、石工喜三郎の5800両の請負によって万延元(1870)年9月22日に竣工した。そのために大町築出地に関連する事項から当時の政府と諸外国との関係、あるいは他の開港との関係などをも類推できる面がある。具体的に言えば大町築出地の性格、分割問題、地所規則、地代などの事項である。
 大町築出地についての一番の問題点は分割についてであった。当初は「右地所を最前英亜両国にて拝借の積御座候所、六ヶ国へ御割渡相成候ては最前の御談判とも違い可申候」とあるようにイギリスとアメリカの両国に貸渡すことの応対があって、その後にロシアも含まれるようになった経緯があった。しかし、万延元(1860)年10月の江戸での応対では図4-2のとおり6か国への貸渡地に変更されており、その理由は「最初談判の節は三ヶ国のみ故、其外の国へ貸渡し候義迄は談判にも不及候へとも、都て外国人へ借候積にて築出候間、追々外国人ら参り候故右の通割候義に可有之事と存候」にみられるように条約締結国への平等な貸与を意図していた。しかし、このことについて3か国の理解を得ることがでぎずに、実態論から当面3か国へ貸渡すつもりという段階で応対を終えていた(万延元申年正月より12月迄「応接下り物留」道文蔵)。
 しかし、文久元(1861)年2月の函館での段階では「箱館表在留外国商人とも可貸渡新規築出地処の義、十画と為し其一画は御邦政府建物之用に供し、其九画は外国人居留地と相定」とあるように貸渡地を10画に分けることが提示された。これに対しイギリス領事ユースデンは、あくまでも実態論でせまり「殊商人の為に新規築立相成候場所を在留人も無之魯仏両国へ割渡候は如何」と商人のための埋立地であり、商人のいないロシアやフランスに分与するのはいかがなものかと疑問を呈した。しかしながら、ロシア領事においてもいつ商人が来函するかわからないので貸渡地がないのは不都合である旨のことが述べられている。

大町居留外国人

 このようになかなかまとめることができなかった大町築出地の分割も文久元(1861)年4月19日の応対により図4-3のように決められた。これによると、当初10画のうち政府の所有とした6番の地所をロシア人ゴスケヴィッチに貸渡し、2番東南の半分を仮に運上所付改所のため政府が使用し、その他はアメリカとイギリスの商人に貸渡すことになった。これをうけて翌々日の応対によれば「地所は今日仮に請取置明後日廿三日在留商人より夫々引渡候積に付其節迄に借用証等地所規則等も差上可申候」となり大町築出地が竣工してから約半年後に貸借人が決まったことになる(文久元酉年7月ヨリ12月迄「応接書上留」道文蔵)。
 さらに、この時期において村垣淡路守とロシア・イギリス・アメリカの各国領事との間で箱館地所規則12か条が締結された。この取り決めは、大町築出地を媒介にした外国側提出の規則案へ箱館奉行が署名したものであった。また、輸出入規則も定められ「築出し地にて船積並陸揚せる諸荷物は其所に取建置改所へ申立、運上所の波戸場は運上所へ申立、改を請免状請取事」(文久元酉年従4月「大町築出地外国人江貸渡規則書」)とあるように大町築立地の運上所付改所は運上会所と同様の機能を持つ場所となったのである。
 また、その貸渡地の地代についてはユースデンの「右築出地の入費は政府よりの出金と承り申候、右地代の儀十画に分ち候上は地位の甲乙も可有之一様には難差定、夫等の御取極は如何御座候哉」と10画の地代についての質問に対し、勝田伊賀守は「築出地の内は別段甲乙無之、地代は当地海岸附商人共貸借の振合に見合取極候積りに候」と築出地内の地代はみな一様で海岸地の商人らの例にならって決めるつもりであると答えた。さらに、ユースデンは「地代は凡何程に相当り候哉」と地代の具体的金額の質問に対し、奉行は「百坪ニ付壱ヶ年凡金弐拾八両ノ積に候」と答えた(文久元酉年7月ヨリ12月迄「応接書上留」道文蔵)。
 実際に文久元(1861)年~慶応3(1867)年までの「地税請取書」によれば1か年100坪につき約28両であり、メキシコドルでは約36ドルの地代を徴収していた。