函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第3章 北海道庁設立と自治制への歩み

第1節 北海道庁設置に伴う行政機構

1 3県から1庁制へ

 明治18(1885)年12月22日、太政官制は廃止されて内閣制が創出された。太政大臣、左右大臣、参議、各省卿が廃止され、内閣総理大臣が各省大臣の首班として大政輔弼の責任を負う体制なったのである。明治14年の政変おいて、10年後の国会開設を約束した政府にとって、立憲体制に移行するための行政改革は避けて通れない道で、「内閣改制ノ詔勅」(18年12月23日)で「内閣ハ万機親裁専ラ統一簡捷ヲ要スヘシ…官守ヲ明ニシ以テ濫弊ヲ除キ、選叙ヲ精シク以テ才能ヲ待チ、繁文ヲ省キ以テ淹滞ヲ通シ、冗費ヲ節シ以テ急要ヲ挙ケ、規律ヲ巌ニシ以テ官紀ヲ粛ニシ、徐々ニ以テ施政ノ整理ヲ図ラントス」(『自治民政資料』)と述べているように職責の明確化、人材登用、文章簡潔、冗費節減、規律厳正を目指した内閣制は、近代的官僚制度確立への第一歩であった。
 明治15年2月に開拓使が廃止され、地方行政は函館、札幌、根室の3県が分担し、主な開拓事業は農商務省所管の北海道事業管理局が統括する体制に移行していた北海道も、この行政改革の進行の中で見直しが検討された。開拓使設置前の見通しでは、土地を拓き住民の繁殖を府県並みに近付けた後に府県を置くというものであったが、必ずしも実効充分というわけではない状況のまま3県1局制が実施されていたため、互いに関連の深い開拓諸事業が総合的に展開されず、開拓の実効があまり期待できないという進捗状況の中で、北海道の開拓を一括掌握できる行政機構が模索されたわけである。
 19年1月26日、政府は次の布告を出して函館、札幌、根室の3県と北海道事業管理局を廃し、北海道庁を札幌に置き、取りあえず函館と根室には支庁を置き、旧函館県及び根室県管轄区域を所管(支庁管轄区域決定は2月23日)させることとした。
 
北海道ハ土地荒漠住民稀少ニシテ富庶ニ事業未タ辺隅ニ及フコト能ハス、今全土ニ通シテ拓地殖民ノ実業ヲ挙クルカ為ニ従前置ク所ノ各庁分治ノ制ヲ改ムルノ必要ヲ見ル、因テ左ノ如ク制定ス
       第一
  函館札幌根室三県並北海道事業管理局ヲ廃止シ、更ニ北海道庁ヲ置キ全道ノ施政並集治監及屯田兵開墾授産ノ事務ヲ統理セシム
       第二
  北海道庁ヲ札幌ニ支庁ヲ函館根室ニ置ク
       明治十九年一月二十六日           内閣総理大臣伯爵伊藤博文
        奉勅                       内務大臣伯爵山縣有朋
                                  農商務大臣子爵谷干城
(明治十九年一月二十六日布告第一号『官報』[官報搭載日一月二十七日])

 
 北海道開拓を統括する行政機構が誕生したわけである。このことは北海道庁官制でも長官の職掌中にも「北海道拓地殖民ニ関スル一切ノ事務ヲ総判」(明治19年1月26日内閣達第6号『官報』)と明記されいる。ただし開拓使が各省と同列であったのとは異なり、北海道内での各省主任事務は各省大臣の指揮を受けることになり、内閣の監督下に入ったのである。この内閣の監督に関しては、同年12月28日の官制改正で長官は「内閣総理大臣の指揮監督に属」すと明記され、次いで23年7月5日の改正では他の府県と同様に「内務大臣の指揮監督に属」すこととなっている。
 初代長官には元開拓大判官で鹿児島県令、元老院議官などを歴任した司法大輔岩村通俊が就任した。