函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第1章 維新政権成立期の胎動

第2節 箱館戦争

5 五稜郭開城

 しかし、箱館山からの砲撃と軍艦による海からの砲撃とを腹背に受けて苦況に立たされていた弁天岬台場は、5月15日、遂に降伏を願いでた。11日の市街戦敗北で運上所箱館の残兵および蟠龍艦の乗組員を収容した事により兵糧が欠乏、そのことが士気の阻喪をまねき衆議が恭順に傾いていたためであった。箱館奉行永井玄蕃、蟠龍艦長松岡磐吉、弁天岬台場の主将相馬主計以下240人は、武装を解除しそのまま台場で謹慎恭順した。
 またこの日までに、戦線を離脱して上湯ノ川村などに在った衝鋒隊、見国隊、砲兵隊などの340人余も、神山の権現台場へ降伏を申し出、武装解除の上赤川の会議所へ送られている。
 この日、千代ヶ岱の津軽陣屋跡へも降伏勧告の使者が来たが、元浦賀奉行与力で主将の中島三郎助はこれを拒絶した。彼はペリーが艦隊を率いて浦賀にやって来た時、単身アメリカ軍艦に乗り込み、交渉に当たった硬骨漢であった。また五稜郭からも、この陣屋跡は敵陣に近く手薄であるので、五稜郭へ集まって最後の決戦に臨むべしとの大鳥圭介の勧告もあったが、中島はこれも斥けた。日頃から彼は「ここは我墳墓の地なり」といっていたという。
 降伏勧告を拒絶された新政府軍は、この日の軍議で千代ヶ岱攻略に決し、海陸軍参謀山田市之允の指揮のもと、諸藩の攻撃部署を定めてた。翌16日朝、御親兵、熊本、福山の兵を先鋒として攻撃を開始した。これを迎え撃った千代ヶ岱守備兵は、大小砲で迎撃したが、遂に白兵戦となり、長カノン砲を操って奮戦していた中島三郎助も弾丸を受けて倒れた。その2子恒太郎、英次郎兄弟も激戦の中戦死を遂げた。この戦闘では、中島が浦賀奉行組与力時代からの同志は奮戦したが、陸軍隊、伝習士官隊の兵卒は五稜郭へ逃げ帰った。。なかでも日頃最も過激の論をはいていたという渋沢成一郎は、ここでも小彰義隊を率いて湯ノ川村へ遁走してしまっている。この千代ヶ岱攻防戦は箱館戦争最後の戦闘であった。
 この戦闘の後、清水谷総督は、青森へ逃れて以来、はじめて箱館の地を踏んだ。4月28日ヤンシー号で江差へ上陸後、新政府軍の回復軌跡を進んで5月13日からは有川村に在ったが、この日、太田黒参謀と共に奪回後初めて箱館本陣、千代ヶ岱を巡視したのである。