函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

第1章 維新政権成立期の胎動

第1節 箱館裁判所(箱館府)の設置

2 箱館裁判所の開庁

 この体制は、翌2年の3月まで続いた。しかし、10月に榎本ら旧幕府脱走軍に追われて青森へ逃れた後は、名目だけのものとなっていた。そこで箱館府は、旧幕府脱走軍から蝦夷全島の奪回体制が整った3月30日、奪回後の施政刷新のため機構改革を実施した。この改革は、その趣意書にも標傍されているように、元年閏4月の政体書体制の具現化を目指したもので、中央政府の機構に倣って府を上下2局に分け、上局を評議決定権を持つ議事局とし、下局を実際に施政に携わる施事局とした。さらに施事局を庶務、外国、会計、刑法の4局に分け、それぞれの職掌を分掌し、文武学校、病院、生産は、議事局直轄とした(表1-1)
       定 (機構改革の趣旨説明)
一 機務ヲ決断シ制度規律ヲ建ルハ御誓文ヲ目的トス
一 分課ヲ立ルハ事務ヲ議行スルニ混乱勿ラシメ、其事務ヲ専任セシムル為也
一 専任ハ勿論其他ノ事務ニ付、異存着眼筋ハ必公論ヲ乞ベシ
右、条約ヲ治定ス、其枝葉ノ如キハ、互ニ真実ヲ尽シ、必竟尭聖意ニ基キ、御政務草奔ニ至ル迄貫通セソ事ヲ希フ

表1-1 箱館府の機構改革と職員配置表

清水谷文書「箱館府改革扣」『函館市史』史料編2、『北海道史要』、「函府御沙汰留」より作成
清水谷知府事の月給は慶応4年閏4月~8月(5か月間)は金800両、9月~10月(2か月間)は金600両、11月は金450両、12月~翌明治2年6月(7か月間)は金  300両で、7月は再び金600両に復している。月給が金300両の期間は、箱館戦争に巻き込まれ青森口総督を兼務していた期間(明治元年11月27日~2年6月12日)とほぼ重なるので、月給の減額は総督を兼務したことと関係があるのかもしれない。なお、当初の月給は金800両は、金額決定の書類は確認できなかったが、慶応4年3月の月給仮定での議定職の月給と同額であるので、裁判所総督は議定聴相当の位置付けられていたようであるが、同年6月の月棒規則では議定は知官事らと共に第1等金700両となり、知府事は参与らと共に第2等金600両と改められている。
 
 上局には、知事、判事、御用掛、書記が置かれ、下局には1等から4等の弁官、1等から3等までの訳官と給仕、玄関番、門番、使丁を置いた。のち弁官補助職として弁官助勤を置く。しかし旧幕府脱走軍の降伏後、箱館府が戦後処理に忙殺されているうちに、蝦夷地開拓政策の刷新を企画した新政府は、開拓使を設置し、箱館府を廃止してしまった。
 清水谷公考は、これに抗議すべく箱館府の御用掛となっていた堀真五郎を伴って上京したが、すでに決定されていた路線を変更させるほどの力はなく、主任官を失った箱館府は、イギリス領事ユースデンから「長谷部(清水谷が後事を託した御用掛)の位は、極軽輩と承及候へども、其他に権ある役人は無之候間、大事件小事件共長谷部氏取極候権無之候はば、東京へ相懸合申さず候ては相成申さず候、運上所右様の次第にて甚差支申候」(『日本外交文書』第2巻2)と指摘される状態のまま、開拓使へ吸収されていくのである。