函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

序章 世界の中の箱館開港

第4節 異文化との接触

4 外国人の家作をした人々

 イギリス領事館の場合には、イギリス公使から建設の要望が出されていた。そこで幕府が検討した結果、箱館長崎の両奉行あてに次のような指示が出されたのである。
 
  長崎箱館表へコンシュル館御取建御貸渡相成侯様致度旨英吉利ミニストル申立候間、相当の家作取建貸渡候積可被心得候、尤英国へ右の通貸渡以上は外国々より申立候節も同様貸渡不申候ては難相成儀に付、右等の場合差含地所広狭を始、建物仕様且地代家賃の多寡等に至迄厚勘弁致し、条約一区の文義に不相惇後の差支不相成様取計候積相心得、篤とコンシェルヘ懸談判仕法等取調可被申聞候事
  但外国々よりも同様申立候節は多分の御入用にも可相成儀に付、家賃等を以て右御入用仕埋出来候様取計候積可被心得候、若商人等にて引請取建方相願候ものも有之候はば為引請候とも不苦候間、いつれにも後々不都合無之様取計候積可被心得候事
                   (万延元申年正月より十二月迄「応接下り物留」)
 
 これにみるように、まず日本側が家作をしてそれを貸し渡し、家賃などの形で建設経費に見合った金額を徴収しようとしたのである。そして以後その他の国も、領事館などを建設する場合、この方式を踏襲するよう指示されたのである。ただ、商人などで家作をして貸そうという者があれば、それでもよいとされた。箱館では文久元年にこれをうけて、商人の請負希望もなかったので、奉行が「御入用」を以て建設することが決まった。当時の領事代理ユースデンが領事館の絵図面を提出したが、それは「凡三百坪余の建物には候得共、御国風の家屋にては寒気難凌、西洋風塗屋いたし呉」と寒さ対策のため、西洋風の家作を要請したものであった(文久酉年正月ヨリ6月迄「応接書上留」)。この要請には、職人方が「都て模様異り居候」と言っているところから、今までの日本家屋の建設とはかなり異なった設計であったのだろう。ちなみに、この絵図面は市立函館図書館にあり、建物の概要を知ることができる。また、越野武「文久三年在箱館英国領事館について」(『日本建築学会論文報告集』第346号)には、氏による復原立面図が付されている。奉行所には「英館御普請御用懸」が組織され、工事は前述したごとく忠次郎が請け負った。工事の様子をいくらか拾ってみよう。たとえば、窓にはガラスを使用したようだが、数種類の大きさのものが計566枚と損傷見込分として115枚を見積もっている。また錠前は65個で損傷分が5個、これは香港からの取り寄せとなっている。ペンキも施したようで前戸に塗る色は、木地色を指定されている。石灰の作り方も「石灰を要とさるる丈塗油を以て交せ堅くなる迄よく搗交るべし」とイギリスの領事館員から教えられている。また、「窓の外戸の青チャンはポーターが所持しているものを用立ててくれれば幸いだ」とある。チャンとは瀝青のことでここでは塗料の意味であろう(文久2戌年正月より12月迄「各国書翰留 英仏」道文蔵)。ところで忠次郎は、一時期ロシア病院、イギリス領事館、アメリカ領事館の3つの仕事が重なっていたから、仕事は遅々として進行しなかったらしい。早く仕上げるようにという催促が、どの領事からも再三出されている。イギリス領事館が引き渡されたのは、文久3年に入ってからのようで、2月に領事代理エンスリーが移転した。ところが、早速奉行に対して修理すべき箇所を指摘している。また、修理の際にはロシアカッヘル(ストーブ)を6基据えることも命じた。ついでながらロシア病院も文久3年の夏頃に出来たらしいが、その苦情も挙げてみよう。大工棟梁忠次郎の建てた領事館と病院は不出来であると前々から注意してきたが、当節は雨後に壁が崩れたのである。しかし棟梁はその修復さえもしない。このままだと冬には住めないだろう(文久3亥年「魯亜仏蘭書翰留」道文蔵)という有様であった。こうしてみると初めて洋風建築を依頼した領事たちも、頼まれた大工たちもそれぞれの立場で大いなる苦労があったものと想像される。