函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

序章 世界の中の箱館開港

第4節 異文化との接触

1 外国人の居留

 今まで述べてきたように、箱館は外国人の出入りする開港場となり、そこに暮らす人々にもその余波が押し寄せた。安政6年8月、市中の住民には「弥風俗を正し、彼等の風ニ習なずまさる様、諸事心付可申事」(嘉永7年甲寅2月より慶応丙寅年12月迄「御触書写」『地域史研究はこだて』第10号)との触書が出された。日本の習慣を守り、異国の習慣に親しむことのないように万事に気を付けるべしとの指示である。あるいは理由もなく外国人と親しくしては、禁制のキリスト教に通じているとの嫌疑が持たれる、といった牽制もされている。住民と外国人との接触を極力回避させようというのが、当時の方針であったことがわかる。そして一方では外国人が歩いている時には、外国人の口からその国へ伝わるから、くれぐれも変なまねはしないようにという注意もあった。外国に向けての幕府の体面が強く意識されたものであろう。しかし、このような島国の閉鎖的状況は徐々に変化し、日本人の礼儀や習慣も変わらざるを得なかった。早くも同6年の12月に出された触書は往来での作法として、日本の住民には外国人に対しても従来同様に振る舞えとしながら、一方外国人に対してはその作法を曲げて、貴人の通行の際の「下座・下馬」という儀礼は取り交さないと、日本の慣行を否定せざるを得ないでいる(同前)。
 さて、実際日常の住民と外国人の関係はどんな風であっただろうか。居留外国人や外国船の乗員は箱館港掟則の適用を受けるなど、行動にはある種の規制がされていたものの、住民との接触による問題が起きていた。そこでは双方の生活習慣の違いなどが主な原因で、摩擦が生じている様子が窺われる。次にある史料がよく当時の状況を伝えている。
 
       一八六一年八月二十七日
   イギリス居留民へ
   触れ書き
  先ごろの調べにより明らかになったのであるが、箱館の住民の住居すぐ近くに、外国人が永住のために、家を建てることに住人が反対している理由は、外国人が町内の通りで馬をとばしたり、住居近くや路上で拳銃やリボルバーを打ち放ち、冬期間は非常に乱暴にソリをのりまわすことにあった。とはいえ下名のイギリス陛下の領事代理は、外国人の住居を一つの場所(居留地のみ-筆者)に決めても不安の原因を一掃できないこと、また不安を取り除く手段は住民自身の手中にあることを表明した。したがって反対も少なくなった。
  ゆえにイギリス領事代理は、箱館港掟則の第一六条に、我が国人民が注意してくれるのが得策である、と考えるのである。「住居付近、路上など陸上で、また規定された港内海上での火器の発射は厳禁する」
  また、第一九条も同様である。「市中で乱暴に馬を乗りまわすことは厳しく禁止する」
関係諸氏の権利に対し、これを通告したからには、下名は第二三条はほぼ不必要であると考える。
「前述の定則に違反したものは、五〇〇ドル以内の罰金または三か月の投獄が課せられる」
            イギリス領事代理
               リチヤード ユースデン 印章
           (自一八六一年至同六二年「英国官吏来翰録」 道文歳、筆者訳)
 
 これはイギリス領事が自国居留民へ出した書類である。これが出された背景には、外国人に対する箱館の住民の苦情が少なくなかった現実があろう。箱館の住人は近隣に外国人が住むことを嫌っているが、その理由は外国人の振る舞いにあるというのである。イギリスは、万延元年7月に自国の居留民の取り締まりのため、独自に23条からなる箱館港掟則を公示して、居留民の行動を制限していたが、それにしても住民が危険を感じるような行為がみられたわけである。すなわち、町なかで馬を乗り回し、街路であっても発砲に興じ、冬には馬そりで徘徊するという態度である。実際に銃や馬による事故で住民が負傷した記録は何件か残っている。このような事故はもちろんイギリス人だけに留まらず、アメリカ人やロシア人も起こしている。その上に、住民にとっては個人的な行状に由来する嫌悪感もあったようで、たとえばイギリス商人ポーターについては、「歩行の際必ず犬を連れて歩くが、その犬がいつも近辺の子供に噛み付き困っている、火事を起こして焼け跡を片付けずに放置して迷惑である、町内で使用している井戸に来て、汚れ物を洗ったり、投棄したりする」(文久元酉年7月より12月迄「応接書上留」)などの不満があった。そんなこともあって、万延元年に疫病で野犬が多数死んだ時には、外国人が井戸に毒を投じているなどの噂が流れ、逆にイギリス領事から抗議されたこともあった。外国人に対して疑心暗鬼となった住民の心理が伝わってくる。
 日本人の目から見たこのような出来事は、外国人からみるとどうであったのだろうか。当時の欧米人には、根底に日本は遅れた文化の国という意識があったことは否めない。そこで進んだ自国の文化に応じた生活を日本の社会でも適用しようとするところに、軋轢が生じているようである。ところで先の史料では、不安の除去は、住民自身の問題だと領事が指摘している。これは、狭い街路での乗馬や発砲は論外であるが、銃や騎乗それ自体は、欧米人の生活に溶け込んでいるもので、箱館の住民もそれを理解してほしいということであろう。箱館奉行ロシア領事に「危険なので、町なかでの馬ソリでの通行を禁ずる」との書簡を送った時、ロシア領事から「ヨーロッパの礼儀では、動物や蒸気、電気の力を利用する乗り物にのるのが当然で、同じ人間の背上に乗るというのは、礼儀に反するものである。それゆえ馬そりが通行できるように、道路脇の積雪を海中に投棄し、道幅を広くしてほしい」(文久元酉年正月ヨリ12月迄「各国書翰留」道文蔵)という返答があった。このロシア領事の感覚はまさに欧米人の思考や態度を象徴しているようである。開港当時の日本人の感覚として、本音では彼らは招かざる客であり、そのような外国人の言動であるがために、はじめのうちはなかなか友好的にはなれなかったのかも知れない。