函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

序章 世界の中の箱館開港

第3節 開港と箱館の産業・経済

3 箱館の貿易

 安政元(1854)年の日米和親条約の締結後は、箱館も開港地となって外国船が寄港することとなる。和親条約のもとでは、外国人との交易はおこなわず、食料、水などの「欠乏品」を補給するための取引だけがみとめられることになるのであるが、部分的には、「欠乏品」補給ではない交易も、はじまってしまうのであった。箱館に寄港したアメリカ商船が鉄砲4000挺と醤油4000樽を交換したいと申し出る例があったり(前出「公務日記」安政4年4月26日の項、鉄砲の品賃が悪く断ることにした、とある)、同年5月の記録に「亜船へ渡候品」として、五升芋250俵(代価アメリカ銀375枚)、大角豆150俵(600枚)、醤油2269樽(4035.75枚)、三石昆布2500斤(62.5枚)、白米1252.75俵(4426.75枚)、漆器・食料(8698.21枚)、代価の合計は、1万8198.21枚(1ドル銀1枚=1分銀3枚-石井孝『幕末貿易史の研究』54頁-で換算すれば1万3600両余)があげられている。これは、「亜商船エスペランツア、ボロンハム両船」との取引であるから「欠乏品」の補給のようには見えない交易がおこなわれていたことになる(前出「公務日記」安政4年5月12日の項)。箱館奉行も「異船」へ渡す米を毎年1万俵も用意しておこうと考えるようになっていたのである(同前安政4年8月3日の項)。この「欠乏品」交易からは「売徳之壱割五分ヨ」=利益の15パーセント余を上納させていたが、これを大幅に引上げて「売高之壱割五分上納」=売上額の15パーセントにする(同前安政4年閏5月7日の項)という方策がとられている。これは、「欠乏品」補給のかたちでおこなわれる交易の拡大に対応するものと思われる。税率を引上げて交易を抑制しようとしたのか、税収の増大をはかったのか、この方策のねらいは不明であるが、この税率引上げには「可成丈下直ニ売渡様」=低価格での売渡を、交易担当の「御用達」に掲示する、ということをともなっていて「欠乏品」交易の拡大を意識しているようにも見えるのである。
 外国側からの自由貿易の要求は強く、対アメリカをはじめ、各国と通商条約を結ぶようになると箱館でも自由貿易の体制にはいることになる。箱館奉行所は、安政6年6月5日から「外国人交易」を許可するという触書を出し(前出「御触書写」同年6月2日付)、ロシア、フランス、イギリス、オランダ、アメリカの5カ国との交易は「商人共勝手ニ可商売」とし、「居留之外国人共」も店売の品物を買取るのも「勝手次第」であると、自由貿易の原則も触書でしめした(同前6月27日付)。
 しかし、6月29日付では、次のような条項をふくむ触書を出して、かなりの制約をもしめしている。
 
一、交易直組出来、外国商人より買請候荷物并売渡候荷物共、品物貫目代料巨細書面にいたし、荷主調印之上運上役所江差出可差図
一、直組出来、外国商人江相渡候出荷物者申立次第改之もの差遣極印打渡候事ニ付箇立以前其段可申出
一、蝦夷地并在々六ヶ場所出産物之分是迄之通相心得、問屋共取扱、沖之口御番所所(ママ)可届事
一、軍用之諸品并米麦銅斗煎海鼡干鮑石炭等者御手捌之外交易停止之事

 
 貿易で扱われる商品の厳重な点検が規定され、北海道の産物の輸出を問屋制、沖之口制の規制のもとにおく、特に煎海鼡干鮑などは奉行所で直接扱う取引以外はみとめない、としたのである。
 また「外国人江諸産物売捌之義ハ御他領之御百姓直売決而不相成趣御取究ニ相成、御他領より差廻し候諸産物ハ何連ニ仕候而も箱館商人共取扱ニ無之候而ハ売捌不相成儀御座候」(「町年寄詰所日記」『松前町史』史料編第2巻、万延元年閏3月10日の項)とされ、他領の商人は箱館での貿易に参加できず、他領の産物もすべて箱館の商人が取扱うように規定されていた。
 自由貿易がたてまえの貿易関係がはじめられたはずのところ、もともと、国内の流通について規制の厳しかった蝦夷地産物の扱い方が、そのまま外国貿易にも適用される体制が考えられていたことになる。