函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

序章 世界の中の箱館開港

第3節 開港と箱館の産業・経済

1 箱館奉行の経済政策-旧制との相剋

 開国、自由貿易と大きく変わって来た対外関係、緊張の避けられない国際情勢のなかで、幕政強化策が様々にとられるが、安政3(1856)年の「通船改会所産物会所」構想(『幕外』14-201)も、そのような性格のものであった。全国的に流通する商品を管理、統制し、売上額の2分を「口銭」として徴収、100万両程が徴収できるものとし、「大艦製造、大砲小銃鋳立……蝦夷地南嶋御開拓」のための資金とし、余分があれば、幕府の「御金蔵」へ上納もできる、という構想であった。しかし、この大構想は、実現しなかった。全国の流通の規模の大きさ、多様さからして、主要な港湾拠点で、その全体を把握できるか、幕府の政治力、資金力で、この大構想の強制力を維持できるかという点で問題があったからであろう。
 箱館産物会所は、この構想の一環としてのものの実現という意味があったようである(永井信「箱館産物会所の機能と意義-幕末産業統制の破綻-」『北大史学』第8号、守屋嘉美「幕府の蝦夷地政策と箱館産物会所-安政期幕政との関連で-」石井孝編『幕末維新期の研究』)。蝦夷地産物の流通を全国的に把握し、流通過程での課税(取引額の2分)により財政的増収をはかり、蝦夷地開発による新産物の販売市場も確保、拡張して行く、というのがその構想で、安政4(1857)年、箱館のほか江戸会所を設置、翌年に大坂兵庫にも会所を設置して、この構想はスタートした。
 これらの会所の機能の状況は次の如くであった。江戸では、安政5(1858)年、7万2000両余の取扱額で、手当、経費を除いた利益788両余、同6年で、取扱額7万3000両、利益金2872両余、大坂兵庫については文久元(1861)年についてであるが、取扱額20万4213両余と16万9148両余、利益金4072両余と3666両余であり、江戸大坂兵庫とも、それぞれの地域へ出廻る蝦夷地産物の50~70パーセントを把握していたものと思われている。箱館会所の取扱額は、安政4~文久元年の5年間で、6万5153両余、年平均で1万3000両余という程度で、産物会所の取扱額の極く一部分をなすにすぎなかった(前出永井論文)。しかし蝦夷地産物の消流という点では、特別な役割をもっていたわけで「開発方仕法」=鉱産物など新しい産物の開発、販路の確保というような点で、役割を果たしつつあった様子は、表序-7、8の数値にもあらわれている。
 
表序-7 箱館会所安政4~文久元年取扱産物

産物
移出
在庫
捌所取扱
漁獲物
両分
6,359.2

1,828.3

8,188.1 (13)
新産物
11,971.3
9,212.0
35,767.3
56,951.2 (87)
18,331.1
11,040.3
35,767.3
65,139.3(100)
年平均
3,666.1
2,208.1
7,153.2
13,028.0    

 (原注)「辰年より酉年迄会所惣仕上勘定并江戸大坂諸荷物調」
 分未満 切捨
 田島佳也「箱館産物会所の実態と特質-幕藩制度解体期の商品流通-」
 (神奈川大学大学院経済学研究科『研究論集』第3号)より
 
表序-8 箱館会所取扱主要新産物 安政4~文久元年
産物
移出(A)
在庫(B)
捌所取扱(C)
五升芋とその加工品
両 分
491.2
 
 
 %      
(43) 24,482.1
石炭
 
8,142.2
23,990.3
 (19)
4,586.0
704.0
2,667.3
( 9) 5,390.2
硫黄
2,181.3
199.0
100.2
( 4) 2,380.3
獣皮・鹿角
1,990.2
166.2
 
( 4) 2,157.0
薬草
1,812.2
 
 
( 3) 1,812.2
11,062.1
9,212.0
26,759.0
47,033.1

 (原注)第15表(ここでは表序-7)と同史料 五升芋加工品は焼酎、花粉、片粟など
 (原注)Cの鉛は「山許有高」を示す、尚ロシア船への貸2,351両3分がある
 (原注)( )は新産物総額に対する百分比
 田島佳也「箱館産物会所の実態と特質-幕藩制度解体期の商品流通-」(神奈川大学大学院経済学研究料『研究論集』第3号)より
 
 この状況は、蝦夷地産物の全量の把握からみれば不十分とは言え、かなりの比率での把握を実現したと考えられるのであるが、問題点も明瞭であった。産物会所は、甚だ評判が悪かった。問屋、仲買の利益を削減して会所収益をとるのであるから悪評は無理もなかった。大坂では与力、問屋、仲買がこぞって、「故障」を申立て、様々な悪評を言いふらしている。船改めや「水揚立合」=荷揚げの立合点検は行われず、「入船石高」も確かめず「御取締筋聊も相立不申」=取締りは全然できていない状況であると思われていたのである(安政4丁巳年正月「諸産物諸用留」)。会所附仲買のもの以外は取引ができず従来、だれでも売買できていた時のように相場がすすまない、会所では現金取引しかできないので低価格の取引ばかり多くなる、魚肥類はどこでもよい値で売れるので会所のある大坂兵庫を避けて別の港へ荷物がまわってしまう(前出永井論文)、というような苦情も出ていて産物会所が、その統制力を拡張するのは極めて困難で、萎縮のおそれの方が注意すべきことだったのである。
 そこで試行の3年間ほどが過ぎる頃には(「御試之為」-前出「書類」-ということで試験的な運営として開始していたのである)新たに対策をたてることになるのであった。「永続仕法」(同前)のひとつの面は、会所の増設であった。蝦夷地産物が大坂兵庫会所による規制を避けて他の港へ廻ってしまうのを把握するという意味からである。文久2(1862)年までに、表序-9のようなかたちで会所が増設になっているのである。
 
表序-9 箱館産物会所 文久2年用達
設立年
     用達名     
職名
安政4年(1857)
杉浦嘉七
山田文右衛門
佐藤半兵衛
総元締
同上
伊勢屋平作
伊達浅之助
栖原角兵衛
紀伊国屋長右衛門
諸色用達
金方用達
産物用達
同上
安政5年
三井八郎右衛門
竹川彦太郎
加嶋屋作兵衛
熊野屋彦兵衛
近江屋熊蔵
伊丹屋四郎兵衛
為替用達
同上
同上
同上
北風荘右衛門
文久元年 (1861)
和泉屋伊助
石割作左衛門
大和屋徳次


用聞
文久2年
西岡林助
山本朝之助
同上
三井三郎助
嶋田入郎左衛門
小野善助
笹屋熊四郎
鍵屋徳次郎
富田屋宗助
為替産物元締
同上
同上
松前
同上
金子屋元右衛門
山形屋八十八
金子屋は安政6年会所用達. 山形屋は文久元年6月
には松前表会所問屋となっていた.
文久年間
藤田屋彦左衛門
同上
渋木市十郎
小川皆五郎
小松屋喜平

 (原注)「箱館方仮御用留」(三井文庫)より作成
 田島佳也「箱館産物会所の実態と特質-幕藩制度解体期の商品流通-」(神奈川大学大学院経済学研究科『研究論集』第3号)より
 松前の分のみ筆者の加筆 林家文書「文久二年番日記」(『松前町史』史料編第2巻)、田付家文書「御触書扣帳」(同前第1巻)の記事による.
 
 会所の増設とあわせて「元仕入仕法」が実施される。「蝦夷地元方御取締并端浦荷物御取締且彼地請負人とも潤助は勿論坂兵両所入津荷物高相増候為元仕入と唱前金さし出受負人共江貸渡置右代り産物は(中略)御直荷物ノ姿ニ取計坂兵江着之上ハ会所附仲買并其筋之者共兼而商法之通売捌候」(万延元申11月「乍恐奉申上候書付」『神戸市史』資料-前出の永井論文の引用による)=場所請負人に資金の前貸をおこない産物で返済させて、その荷物を大坂兵庫へ廻す、という方法である。大坂方面では、蝦夷地産物の流通を規制するのは困難で「蝦夷地元方」すなわち産物を搬出する出発地の方で把握することが重要とみられていた。「蝦夷地元方」では、沖之口制、問屋制、場所請負制が、機能しており生産、流通の規制は、やりやすいと思われたのであろう。これらの従来からの規制の機能を生かし、巨額な前貸資金を運用できれば、蝦夷地産物を意のままに動かせたかも知れない。
 しかし、幕府自体に資金はなく、京都大坂の両替商などの出資に依存して資金を調達しなければならず、これは、なかなか順調なものではなかった。実施の初年次、文久元(1861)年に、大坂会所の為替用達三井八郎右衛門、竹川彦太郎、兵庫会所用達北風荘右衛門は全く出資に応じないという有様だった。初年次のまとまった出資は大坂会所用達加嶋屋作治郎の1万両だけで、あとは、京都で募った4000両、江戸会所から6000両であわせて2万両が、最初の資金となった(田島佳也「箱館産物会所の実態と特質-幕藩制解体期の商品流通」〈神奈川大学大学院経済学研究科〉『研究論集』)。その後は、出資者に有利な条件(前出の永井論文では、年利にして2割1分7厘を取得することになり「かなり有利な投資」としている)、そして幕府からの強要(守屋嘉美「箱館産物会所と『元仕入仕法』」『北海道の研究』4近世篇Ⅱ)によって出資額は、次第に増えたようである。三井三郎助、嶋田八郎右衛門、小野善助の出資は、文久3(1863)年から慶応2(1866)年の間に5万5678両余にまでなっている(田中修「場所請負制度の解体と三井物産」北海学園大学『経済論集』第8号)。
 しかし、この資金量では、数十万石、金額にして100万両以上にはなる蝦夷地産物の総量からして、その流通に決定的な影響力を持つ程にはなり得ないのであった。
 ちなみに幕末期の蝦夷地産物の総量については次のような史料がある。
 安政4(1857)年見積額71万2000石で114万2700両(「産物並調進抜書」のうちの諸産物高凡積其外売捌代金会所取建辻并諸入用等取調候書付-前出田島論文の第6表より)。
 同年頃の見込額200万石で410万8000両(福島屋文書「産物取開方見込書」-前出永井論文)。
 慶応2(1866)年(?) の見積額55万石余で222万9075両(「福島屋文書(写本)」のうちの「東西蝦夷地諸産物見積扣」、年代の記入がないが本文中に、「ヲタルナ井去丑年村並」という記述があるので、慶応2年かと思われる。北蝦夷地の産物をふくみ、和人地の分をふくまない数値である)。
 慶応3年、38万3800石-金額記入なし(「慶応三卯年九月改メ 蝦夷地一円産物凡高扣」-本文中の数値を合計すると東、西、北蝦夷地合計で45万石余となるが末尾の合計数値は表記の38万石余である。和人地の分はふくんでいない)。
 明治2(1869)年、43万2500石、この史料では100石=400両で概算しているので173万両となる(「東西蝦夷地産物高并諸廻船積出税取立方見込中勘」、表紙に「安政年間カ」と書き込みがあるが本文中に「今般請負名分被廃候ニ付」という文言があるので明治2年である。函館、松前、江差3ヵ所付村々の産物6万2500石をふくんでいる)。
 幕府が新しい規制力を発揮するべく施策を立てても、旧来の制度(場所請負制など)や旧来の特権商人の資金力に依存しないでは、何事も進展しない体質のまま試みることになり、この体質は、政治的に大きく動揺させられていた-文久3(1863)年頃から政情不安は、商人へも直接及んで来る。商人の首をさらして「幕府之奸吏」と結託する極悪人を誅したとされ、三井八郎右衛門らを名指しで非難する張紙が出たりする。雑多な「悪者」が「浪士同様之難題」をもって三井の店に押しかけ、江戸京都とも休店になってしまう。三井はおそれをなして産物会所為替掛屋の辞退を申し出る(役人の説得で留任)という状況になっており、幕府と特権商人の関係は安定的ではあり得ない政治情勢になって来ていたのである(前出「箱館産物会所と『元仕入仕法』」)-のであるから産物会所の構想が大きく発展したり、財政上に決定的なプラス面をもたらすこともあり得ないまま、その役割を終えて行くのある。