函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

序章 世界の中の箱館開港

第2節 箱館奉行の再置と箱館

2 五稜郭と弁天台場の築造

 箱館御役所の建設工事は、3つの五稜郭関係工事のうち最も遅く着手された。御役所は五稜郭内に建設されるものであり、五稜郭それ自体の築造工事が御役所の建設に支障のない程度まで進捗しない限り、着手しえなかったからである。御役所建設工事の件が具体的に進みだしたのは安政5年からで、同年3月、箱館奉行は御役所の普請見積を小普請方・鍛冶方・石方請負人中川(伊勢屋)傳蔵(江戸浅草橋場町住・家持)に行なわせ、「入札之模様ニ寄リ、請負等」を申し付ける方針を決めた(「御普請御用留」、以下断りのない限り同史料による)。その後箱館奉行側は、万延元(1860)年までには設計書・仕様書等を作成し、それに要する費用を金1万2449両余(大工・木挽・諸職人足、材木・石類・畳・建具・諸色運送足代、損料共一式入用金)とはじきだした。安政3年に予定した御役所・役宅等の普請費は、2万5000両であったから、御役所の普請費のみで、上記の予算の約5割を占める結果となったわけである。こうした金額になった背景には、箱館は、「松杉桧其外家材必要之木品無之、いつれも南部・津軽・羽州辺より入津致候儀ニ而、海上運賃も多分相掛、且大工を始諸職人払底之上、多分者奥羽・越後辺より出稼之者ニ而、巧者之もの無之上、出稼旅人之義ニ付、賃銭而已高直ニ有之、其上入港之外国船・在留官吏居留人等、材木諸品共買取候ニ付、昨今別而物価騰貴いたし」という状況があった。
 そのため、箱館奉行等が中川傳蔵代伊兵衛に相談したところ、彼は、「奥州若松、羽州能代、越後新潟辺ニ而、夫々其所之材木山伐出、荒増木取下拵之上、時宜ニ寄小屋組地置等迄いたし候上、箱館表江積廻し候得者、船積石数も相減候ニ付、運賃多分之減方相成、職人人足賃等も下直ニ付、右場所之内ニ而下拵致候義ニ候得者、前書御入用高之内、壱割余引方いたし、金壱万千弐百両を以一式請負可仕旨」と答えたため、箱館奉行は、渡りに船とばかりに、この伊兵衛の提言を受け入れ、同年12月、中川傳蔵に一手請負わせたいとの伺書を老中に提出したが、翌文久元(1861)年2月、老中は箱館奉行に対し、「都而伺之通可取計」と指令した。
 こうして御役所の建設工事は、文久元年以降、中川傳蔵の一手請負工事として着手されたが、中川傳蔵は、秋田の能代で下拵をしたうえで、資材を能代から箱館に廻漕し、文久2年秋から五稜郭内に建設を開始した。ところが同年7月、箱館奉行は、従来の1年箱館在勤から家族連れの在住となったため、急遽奥向きの模様替えを行い、元治元(1864)年に漸く完成し、同年6月15日、奉行小出秀実は新役所に移った。なお、先にも記したように、工事中は「亀田御役所」と称したが、竣工後の新役所は、正式には「箱館御役所」と称することとなった。したがって、「箱館奉行所」というのは俗称である。また多くの文献は、元治元年で五稜郭関係の諸工事が総て完了したともうけとれる記述をしているが、これは間違いであり、付帯工事を含めた総ての工事が完了したのは、慶応2(1866)年のことであった(「五稜郭御役所廉増御入用調」東京国立博物館蔵)。