函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

序章 世界の中の箱館開港

第2節 箱館奉行の再置と箱館

2 五稜郭と弁天台場の築造

 また、役宅の建設については、安政5年に五稜郭の北側の地に地割を開始しているが、安政4年4月の老中宛箱館奉行の「箱館表御台場亀田御役所其外御普請御用掛支配向之内雑用金之儀奉願候書付」(「御普請御用留」)に「同心共之儀者、亀田御長屋より通勤仕候ニ付、別而日々未明より罷出、夜ニ入帰宅仕、下役之儀者、箱館住居ニ付、是又亀田之方江罷越候」とあるので、同心長屋にあっては、安政4年以前に既に亀田に建設されていたことが判る。しかし、同心以外の役人たちの住宅の建設は、安政6年以降のことであった。すなわち「御普請御用留」によると、安政6年よりまず支配定役(同年4月、「調役下役」を「定役」と改称)の役宅の建設を開始し、万延元(1860)年11月、彼等の役宅30軒が完成したため、定役は同年中にこれらの役宅に移転している。さらに文久元(1861)年2月、箱館奉行は、「御役所向御普請之儀、先達而奉伺御下知相済、当春より下拵其外取掛候ニ付而者、組頭以下役々御役宅之儀も、同時出来引移不申候而者差支候儀ニ候得共、惣体一時取掛候而者、御入用御出方ニも差響候間」として、とりあえず組頭用2軒、調役用8軒、定役元〆用4軒、立合御勘定方用1軒、同御普請役並用1軒の計16軒の役宅建設方を老中に伺っているが、ここで注目しておきたいことは、これら上級役人は、いずれも家族連れで、「老親妻子厄介等多人数」の者もあり、殊に「御固諸家家来より御用達町人等」が出入するので、「住居向聊有余無之候而者不体裁ニ而、御威光ニも相拘」る故、できるだけ建坪を広くするとともに、寒地向きの住宅にするよう主張していることである。老中はこれを総て許可しているので、要求どおりの役宅が建設されたものとみてよい。その後、何軒の役宅が建設されたものか正確な数字は定かでないが、支配向役々等が右の新役宅へ移転したのは、元治元(1864)年8月のことであった。こうして、五稜郭の北側の一画は、原野から新たな侍屋敷地へと一挙に変容するに至ったのである。

五稜郭と役宅 箱館亀田/一円切絵図より