函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

序章 世界の中の箱館開港

第2節 箱館奉行の再置と箱館

2 五稜郭と弁天台場の築造

 五稜郭関係の工事は、堀割・土塁(いわゆる五稜郭)の築造工事、五稜郭北側の一画への役宅の新築工事、五稜郭内への御役所(工事中は「亀田御役所」と称す)の新築工事の3つに分かれるが、このうち最初に着工したのが堀割・土塁の築造工事であった。以下、主に「御普請御用留」に依拠しつつ、これら3つの工事と弁天台場工事の概要について触れておきたい。まず堀割・土塁の築造についてみると、当初の予定では、「五稜郭惣堀両岸二重土塁穴堀等悉石垣築立」となっていたが、これをそのまま実施すれば、莫大な経費がかかるうえ、石類切出しのみでも数か月を要し、しかも御役所・役宅の早急な完成が緊急の課題になっていたところから、安政4年7月、まず惣堀を堀割し、その揚げ土で一重土塁を築いて芝付けをし、御役所・役宅を新築・移転したうえで、石垣の建設を行うことに工事変更を行った。以後この方針で工事を進め、安政5年10月、惣堀・堀割と一重の土塁が完成したが、築造地は「土性不宜候上、谷地埋立等之カ所も有之、切岸持保不申、其上寒地之儀年々凍崩」するという問題に遭遇したため、御役所・役宅の完成後に石垣を築くという方針をそのまま維持することは困難となった。そのため箱館奉行(竹内・堀・村垣・津田)は、安政6年2月、御役所・役宅完成以前に石垣を築くこととしたが、かといって、最初の計画どおり「西洋法石垣御全備」は経済的にとうてい不可能であるため、「先当時堀割出来候分、両岸共野面石垣ニ而、見付ニ不拘御保方専一ニ築立」する旨再び計画を変更した。その後の五稜郭の工事は、基本的にはこの線に沿って進められたのである。したがって、その形態や構造も、これによって当初の方針より大幅に後退したことはいうまでもない。この石垣の工事は、万延元(1860)年末頃には大略完成し、5か所の橋を含めたその他の工事がほぼ完了したのは、元治元(1864)年4月のことであった。このように当初の方針より大幅に後退することになったのは、財政上の問題もさることながら、開港後、多くの入港外国船・外国人に対応するなかで、箱館奉行自身が外国による箱館への直接的な軍事的攻撃の可能性は薄いものと認識するにいたったことにもよるものと思われる。しかし、それにもかかわらずこの工事を断行したのは、新たな対外関係の中で、「国威」を示すことの重要性を痛感していたからであろう。
 ところで、現存する関係史料を見る限りでは、五稜郭に大砲を設置したという事実を知ることはできない。おそらく最終的には設置しなかったのであろう。であってみれば、この点でも、当初計画時の五稜郭と完成後のそれとの間には大きな開きがあったのである。なお、五稜郭の築造にかかわった請負人は、箱館御役所附御用達佐藤忠兵衛山田寿兵衛杉浦嘉七箱館御用取扱北蝦夷地御直場所差配人元締の松川弁之助、小普請方石方鍛冶方請負人中川(伊勢屋)伝蔵、備前の石工・喜三郎の計6名であった。