函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

序章 世界の中の箱館開港

第2節 箱館奉行の再置と箱館

2 五稜郭と弁天台場の築造

 その後、安政2年12月2日、箱館奉行(竹内・堀)は、老中(阿部)に「箱館御役所御引移地所外構(他書「土塁」)」の築造について絵図面を添えて伺書を提出しているが(『幕外』13-93)、同文書によると、この「外構」は、万一の場合に備え、「役々家族は勿論、最寄土民ニ至迄…不残塁営之後江引入」れうる「根城同様」の機能を有するものとして構想し、かつその様式・構造も、「西洋諸州陣法術書」をもとに形容を省き、専ら「防禦専務之仕法」に基づき設計したものであった。なお、同文書の後段に、「普通之土塁ニ候ハゝ、先般御下知済ニ基き、直様仕越御普請取懸り可申儀ニ候へ共、西洋法土塁築立之儀は本邦創製にも有之、一応御下知無之内は取懸り候儀も出来兼云々」とあるが、「蝦夷地御開拓諸御書付諸伺書類」や「亀田御役所五稜郭・弁天岬御臺場御普請御用留」(東史蔵、以下「御普請御用留」と略す)所収の文書では、この部分が専ら経費の捻出方法に関する文となっている。このことはおそらく、この伺書は、当面のプランに重点を置いたものであったところから生じたものであろうが、それにしても、いずれの場合も、詳細な予算書が付いていないため、12月12日、老中が詳細な予算書を付けて改めて提出するよう指示した旨記されている。
 そのため箱館奉行は、翌安政3年5月26日、箱館表の経営にかかわる「年々定式御入用」(経常経費)と「臨時御入用」(臨時経費)の予算書を老中(阿部)に提出しているが(『幕外』14-79)、「臨時御入用」金41万8760両余のうち、五稜郭関係費は、「御役所構、五稜郭惣堀御入用」金9万8000両、「五稜郭御備筒御入用(24ポンド筒50挺)」金4万両、「御役所・御役宅、役々役宅向御普請御入用」金2万5000両、「亀田川掘割、水門洗堰、船入堀并風囲土塁、苗木植付、其外共御入用」金2万両の計金18万3000両で、しかも弁天岬御台場(築造費10万両、25ポンド筒50挺分4万両、計14万両)と同様24ポンド筒50挺を配備すべく計画されており、かつ同年10月3日、老中がこの予算案を認めていることや(同前)、先の安政2年12月2日段階での計画案の内容からすれば、「外構」(五稜郭)は、少なくとも当初の計画段階では、軍事的機能をも備えた「根城」的堡塁として構想されたことは否定できないようである。しかし後述のように、その後の工事過程で、軍事的色彩は次第にうすれていった。なお、この設計者は、弁天台場と同じく蘭学者武田斐三郎(諸術調所教授役)であったが、「五稜郭」という名称が関係記録に登場しだすのは、今のところ、前記の予算書における記載が最初のようである。
 その後箱館奉行(竹内)は、安政3年10月8日、津軽・南部両藩の陣屋が前年に竣工し、松前藩・仙台藩の陣屋も完成したこと、こうした状況の中で、台場や御役所土塁の築造工事が遅れては、これら諸大名に対してのみならず、「箱館市中之者」「異国之者共」に対しても幕府の「御失体」となるので、先ずは、弁天台場の工事から着手し、御役所土塁の工事は明年より着手したい旨、老中(阿部)に上申したため、老中は、同年12月3日、「見込之通可取計」よう指示した(『幕外』15-70)。かくして、弁天台場の工事は同年より、御役所土塁の工事は翌安政4年より着工されることとなったのである。