函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

序章 世界の中の箱館開港

第2節 箱館奉行の再置と箱館

2 五稜郭と弁天台場の築造

 箱館奉行が再置されるや、箱館御役所及び支配向役宅の増改築ないしは新築・移転と箱館周辺の台場の整備・充実という2つの問題がいち早く同奉行の大きな政治的課題になったことは、先にみたとおりであるが、その最終的結論がいわゆる五稜郭の築造と弁天台場の築造であった。そこでここでは、この両者の問題について要約的に整理しておきたいと思う。
 まず前者の問題についてみると、先にみたように、最初の箱館奉行竹内清太郎のこの問題に関する初期の方針は、従来の松前藩の箱館御役所(松前藩の箱館奉行詰役所で、箱館及び箱館付在々の支配と箱館沖の口番所支配の拠点)、及び旧家臣役宅を増改築してそのまま利用しようとするものであった(当時竹内は未だ在府中)。ところが、松前・蝦夷地調査中に同奉行に任じられた堀織部は、現地箱館の地理的状況を充分に熟知していただけに、同年9月、竹内とは全く異なる対応策を老中に上申した。堀の見解の要点は、(1)箱館は、「孤山之麓ニ市廛稠密ニ櫛比致し、同所町外れ桝形と申所より亀田村迄ニ沙地凡二十町程有之、横巾纔三百間計ニ而、東西海を帯し居候ニ付、軍艦一方ニ繋致し、炮門を開き候節は、通路難相成地勢」故、「一炮粉韲之死地」となること、(2)開港という新たな状況の下で、アメリカへは5里四方の遊歩をも許可したので、箱館山に登り一望すれば、「眼下之市中は勿論、是迄之役宅并支配向住居為仕候場所等盡く見おろし、更ニ障屏も無之、人居多少之虚実も明白ニ相顕れ、其上勝手向庭先迄巨細盡く被見透候而は、威厳を貯へ不測を示し候場合無之、平常御取締ニも甚差障り」、しかも「外夷」は、「入津之節第一着眼仕候ハ、何れ之地ニ而も、其所之官吏在住之地を目懸」ること、(3)よって、まずは御役宅・支配向住居を現在地から亀田・有川辺へ移転させることが必要、というものであった(『幕外』7-248)。
 また、松前・蝦夷地調査を終えて同年10月10日帰府した村垣與三郎も(「公務日記」)、翌11月老中阿部正弘へ差出した「箱館市中并近在村々見分仕見込之趣申上候書付」(『幕外』8-119)のなかで、この件について「箱館御役所之儀は、浅間ニ而海岸間近ニ有之、山上江登り候得は、御役宅・市中共悉く一目ニ見透し、甚以御要害不便利之地勢」で「死地同様之場所」故、「亀田村江別ニ一郭を御設ケ、築地柵門等御取建、郭内へ御役所并地役住居向等取建……郭内江ハ番人差置、異人は一切出入を停止し、市中之もの共も猥ニ出入不致様、厳敷相制」すべきであると主張している。阿部は、この村垣の意見を「至極尤之儀」とし、評定所一座・大目付・海防掛・御目付にも意見をもとめたが、評定所一座は、12月、「いつれも與三郎申上候通被仰付然」とし、堀の意見を聞いた上で最終決定すべき旨を阿部に上申した(『幕外』8-228)。
 こうしたなかで箱館奉行(竹内・堀-堀は11月28日帰府〔「公務日記」安政元年12月3日条〕)は、12月3日、箱館御役所・支配向役宅の新築・移転先を亀田村の奥(海岸より直径24~25里程)、鍛冶村の西、中道の南の「平原曠野之内」とし、「御役所四方土壘」を設け、「万一之節ハ、筒配リ」をし、「右一郭内江御役所并支配向御役宅等」を建てたいとの伺書を阿部に提出したが(『幕外』8-129)、この件については、先の堀の上申書に加え、村垣の具体的な提言もあって、幕閣内では既に新築・移転の線で意見の一致をみていたことから、阿部は、12月9日、箱館奉行に対し、「都而見込之通取計」(同前)うよう指示した。こうして箱館御役所と支配向役宅については、新たに亀田辺に新築・移転することとなったのである。
 ところで、同じ12月9日、箱館奉行(竹内・堀)は、矢不来・押付・山背泊・弁天岬・立待岬・築島沖の口番所の7か所の台場の新築・模様替を中心とする箱館周辺の防備策を阿部に提出したが(『幕外』8-144)、阿部は翌安政2年5月13日、「御台場新築模様替等、何れも急務ニは候得共、一時に御取建之義は不容易御用途ニも可之候」との理由で、「第一之要地与被見込候弁天岬・築島之方より取懸」るよう指示した(同前)。しかし、実際着工したのは、弁天台場のみであったことは後述のとおりである。