函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

序章 世界の中の箱館開港

第2節 箱館奉行の再置と箱館

1 箱館奉行の「預所」と諸任務

 第1期の箱館奉行に期待された主要な任務は、先にみたように、(イ)箱館を中心とする5~6里四方の幕領地の統治、(ロ)箱館開港に伴なう対外関係の処理、(ハ)箱館を中心にした幕領地の海岸防備、の3点であった。しかし、外国船に対する薪水・食料・欠乏品の供給等を主とした正式な箱館開港は、第2期の安政2年3月以降のことであり、それ以前に箱館に入港した外国船は、安政元年8月30日、ロシアの対日使節プチャーチンの乗船したディアナ号の入港(9月1日、船将次官ポシュエット、徒目付平山謙二郎・箱館奉行支配調役下役出役吉見健之丞等とディアナ号上で会見し、薪水食料の供給を要求するとともに、大坂で幕府と交渉したい旨の老中宛書簡を箱館奉行堀利熈に差出し、9月7日出帆〔『幕外』7-158・169~171、173・176・179・180・182〕。なおこの間、箱館奉行は、ロシアが条約未締結国であるにもかかわらず、薪水・食料の供給をはじめ、ポシュエット他の乗組員の上陸を許可し、かつ浄玄寺で堀が彼等に応接し、前記の書簡を受取るなど、異例な対応をしているが、これは、4月7日老中阿部正弘が、ロシア船に長崎・下田・箱館への寄港を許し、薪水・食料その他欠乏品の供給を許可するとともに、漂民の撫育、船舶の修復をも認めるよう指示していたこと〔『幕外』5-218〕によるものであろう)と安政2年2月、3艘のアメリカ捕鯨船の入港を数えるにすぎなかったから、本来的な意味での(ロ)に関する仕事は、結果的には、それほど大きな比重を占めるものではなく、その性格からすれば、むしろ臨時的色彩の濃いものであった。
 したがって、この期の箱館奉行の仕事は、当然のことながら(イ)と(ハ)に重点が置かれることになったが、この期は、箱館奉行再置後僅か9か月未満という短期間であったうえに、2名の奉行のうち、竹内が箱館に着任したのは安政元年9月末頃で(「公務日記」)、堀は、蝦夷地調査中に箱館奉行に任命されたこともあって、竹内の箱館着任時までの期間は、箱館を中心とする新幕領地の一般的な経営方針は主として在府中の竹内を中心として準備が進められ、現地箱館の経営にかかわる具体的な方針は、むしろ堀や松前・蝦夷地調査中の村垣の意見をもとにして幕閣内で検討されたようである。こうしたこともあって、現地の状況をふまえた具体的な対応策が積極的に検討されだすのは、竹内が箱館に着任し、堀との直接的な意見交換が可能となった安政元年9月末以降のことであった。
 ともあれ、こうした状況の中で、竹内・堀は、ともに様々な問題にかかわる意見や諸施策の実施方を老中に上申しているが、これらのなかで、この期の箱館奉行「御預所」の性格や同奉行の任務とのかかわりで重要と思われるものは、(1)箱館御役所及び役宅の増改築ないしは移転、(2)箱館周辺の台場の整備・充実、(3)東蝦夷地の上知、という3つの問題である。このうち(1)の問題は、初期には旧松前藩の箱館御役所や家臣の役宅等を増改築してそのまま利用するという方針であったが、安政元年9月以降、役所・役宅ともに別地へ新築・移転させるという方針が強くうちだされてくるので、まず前者の方針についてみておこう。
 竹内は、安政元年7月25日、「箱館表御役所」その他の件で老中に対し伺書を提出しているが(『幕外』7-45)、その要点を記すと、今回の箱館奉行配下の「支配向」は、すべて家族連れの「在住」の予定なので、箱館の御役所をはじめ支配向用の住宅や番所等も修復・増築が必要であり、また当面用意金として金2000両を渡してもらいたい、というものであった。これに対し老中は、すべて許可の指示を与えているが、この段階での竹内の方針がこうしたものになったのは、当時竹内は箱館に関する具体的情報を未だ持ちあわせていなかったところにあった。しかし、蝦夷地調査中に箱館奉行に任じられた堀が、8月20日箱館に帰着して村垣と会見し(「公務日記」)、旧松前藩の箱館御役所や家臣の役宅の状況やその立地条件をつぶさに知るに至って、彼は同年9月、役所と役宅を増改築するのみでは不充分であって、ともに箱館山麓の現存地から亀田・有川辺へ新築・移転させるべき旨を老中に上申した(『幕外』7-248)。これが発端となって、いわゆる五稜郭の築造へと進んでいくのである。
 (2)の問題も、閏7月18日付の竹内の老中宛伺書(『幕外』7-補遺6)では、台場の警備は従来通り松前氏に担当させ、非常の際は、津軽・南部両藩に出兵を命じる、という程度にすぎなかったが、竹内が箱館に着任し、堀と協議しうるようになると、彼の認識も変わり、12月9日には堀と連名で、箱館周辺の矢不来、押付、山背泊、弁天岬、立待岬、築島沖の口番所の各台場の増強をはじめ、役所へ車台筒数挺を備え、箱館山上に烽火台場、遠見番所を設けることなどを老中に上申した(『幕外』8-144)。これに対し老中は、弁天岬、築島の両台場の築造を許可したが、五稜郭の築造とならぶ弁天台場の築造もこれを契機として行われたのである。
 (3)の問題は、この期の箱館奉行「御預所」の性格と復領以降の松前藩の場所請負制のあり方及び蝦夷地産物の集荷形態との矛盾から生じた問題であった。すなわち前幕領期に、幕府は、東蝦夷地の産物は箱館に、西蝦夷地の産物は松前に集荷する体制をとり、復領後の松前藩も基本的にはこうした集荷体制を継承したものの、場所請負人の多くが城下松前に居住していたことと、場所請負人株仲間問屋との密接な関係もあって、東蝦夷地産物の箱館への集荷という体制は、大きく動揺するに至っていた。こうした状況下で箱館を中心とする5~6里四方の地が幕領となったのであった。その結果、箱館はますます生産地から遊離し、箱館の経済は大きな打撃をうけることとなった。こうして、東蝦夷地の上知という問題が急速にクローズ・アップしてくるのである。
 この問題を最初に幕閣に上申したのは村垣であったが(『幕外』7-補遺15)、その後竹内もその重大なるを知るに至って、10月竹内・堀の両名は連名で老中に対し東蝦夷地を早急に上知すべき旨上申した(『幕外』8-60)。しかし、この問題と並行して、対露関係とのかかわりで蝦夷地全域を上知すべしという意見も村垣・堀等から相次いで老中に上申されるに至った。かくして幕府は、箱館開港への対応のみならず、対露関係、箱館の経済問題という3つの問題を同時に解決する必要に迫られ、それへの最終的な対応策が木古内村以東・乙部村以北の和人地蝦夷地全域の上知であった。