函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

序章 世界の中の箱館開港

第1節 安政2年の開港と異国とのつきあい

2 黒船渡来

 ところで、松前藩側はなぜ(6)の家屋に関する件のみを拒否したのであろうか。その理由は、ペリー側が提出した書類中の(6)の文で、家屋のことを「公館」と記していたところにあった。「公館」は、地方官の役所、官舎の意であるから、ペリー側の要求は、「三軒の役所ないしは官舎を我々に提供せよ」という意になり、松前藩側がこれを拒否したのも当然のことだったのである。松前藩側の拒否にあい、それが誤訳から生じたことを知ったペリー側(ベント、及びウィリアムズ等)は、改めて、下田で了仙寺に3室を借りた事実をあげて、その真意を松前藩側に伝えるべく、「前者(さき)に横浜に在りて議する所の條約の各款内、両国和好相交は彼此を分かつべからず。今下田に在りて亦曽て廟堂三間を借り、暫らく歇息するのみ、別意有るに非ず。此下田に在りても亦然る也、你疑うべからず。我国此廟を得んことを要(のぞ)む也」(「御用記写」)と述べたが、同文の次に1字下げて「廟は正廟に非ず、旁邊の和尚の住む所の屋房を言う也。如(も)し此廟房を借る能わざれば、或は別處の間屋を以て暫らく借るも亦可なり」とあることや、さらに「昨日言う所の借廟の事、廟廊衙門を指すに非ず也、和尚の住房及間居の寺屋を言うのみ」(同前)と重ねて説明していることからすると、「廟堂」・「廟」なる語を用いたために、その解釈をめぐって両者間に新たな誤解と混乱をもたらすことになったようである。『遠征記』に「司令官副官が問題の『部屋』“hall”について説明をし、提督は、平常宿者に供せられてゐる諸寺院内の部屋を、一時の宿所に使用し度いと希望するのに過ぎないのであって、宗教的設備を占有せんとするものではないと語ると、奉行は大いに安堵したやうであった。彼は明かに、吾々が何等かの方法で日本国の信仰を妨害するつもりなのだと想像していたからである」とあるのは、このことを指したものであろう。
 こうして松前藩側は、ペリー側が「公館」・「廟堂」・「廟」なる漢字で伝えようとした本来の意味を漸く理解するに至ったがしかし、これで同問題がその場で決着したわけではなかった。家屋の利用者数、休息日数、宿の有無など、その具体的な使用形態については未だ何一つ知らされていなかったからである。そのため松前藩側は、この日の会談で羅森ウイリアムズを介してベントに対し、これらの件に関する具体的な説明を受けた後、改めて協議すべき旨を漢文で伝え、翌4月24日の会談(於応接所)の際、ベントが「借る所の屋三間、一間はこれ提督に與う、上岸歇止の地なり、或は風雨無ければ則ち夜間も此宿に在らず、或は病有れば則ち此に到りて舒伸する或(あ)り、其椅掉(棹)幾件を以て放置す、此房則ち間人、喧嘩を許さず。又一間はこれ以て各下官等に與え、上落遊行歇倦止足、便するの所とす。若し風雨無くんば倶に此に在りて夜寐せず。又一間はこれ冩画の人に與う、冩画と其同伴三四名、夜間に於ては亦船に回りて宿す。此三間は是暫らく借るなり、得んことを要むるには非ざる也」(「御用記写」)と説明したため、松前藩側はこれを了承し、ペリーには山田寿兵衛宅(応接所)、士官たちには沖の口役所、ハイネ等画家たちには実行寺をそれぞれ休息所として提供することにした(「御用記写」、『遠征記』、『随行記』)。ともあれ、こうして松前藩側は、当初ペリーが要求したすべての事項を受けいれることとなったわけであるが、上記のような問題が生じたのは、箱館における日米会談・交渉が横浜、下田におけるそれと異なり、漢文を介した筆談のみで行なわれたところにあったとみられる。それにしても、ペリー側に羅森がいながら、なぜこのような問題が生じるに至ったのか、その原因は定かでない。