函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

序章 世界の中の箱館開港

第1節 安政2年の開港と異国とのつきあい

2 黒船渡来

 ペリー側と松前藩役人との具体的な交渉は、翌4月22日から開始されたが、両者の会談・交渉で前記の巨大な艦船が松前藩の役人に無言の圧力として機能したことはいうまでもない。しかし、この問題をみる上で同時に目を向けておかなければならないことは、ペリーは日米和親条約調印の一方の当事者であり、それだけに、同条約調印に至る日米交渉に伴う豊富な情報を有していたのに対し、松前藩側は、前述のように幕府から断片的に通告さたれごく僅かの情報しか有していなかったばかりか、肝心の日米和親条約についても、幕府からではなく、相手国のペリーから示されて始めてその内容を具体的に知ることができたということである。この間の経緯を若干みておこう。
 4月21日、藤原主馬関央代嶋剛平蛯子次郎の応接方がマセドニアン号で幕吏の書状を受け取ったあと、ウイリアムズは彼等に同条約を見せたが、これについて「御用記写」は、「於横浜御条約之次第有之候由ニ而、所持之書付差出候ニ付、一覧いたし候上写取持参いたし度旨申聞候処、此方ニ而写取、上陸之節持参可致旨申聞候」「応接之ものより申出候ニは、異舩中ニおゐて右ウリヤムス与申異人、日本語ニ而種々申聞、聢与聞取兼候得共、此度横浜表ニおゐて品々御約定相済候由ニ而、漢文ニ相認候書面壱通差出候ニ付、一覧いたし候得共、数件之事故暗記不致候由、尤御条約中ニ舩中闕乏品被下方之義は、下田港は御約定即日より御開き、箱館港之義は、来三月より御開可成由ニ認有之趣罷帰申達候段前同人共申達候、乍去右等之義は、従公辺未タ御達も無之、其上真偽之程茂難斗、決而取用候義は無之候得共…」と記している。
 すなわち、松前藩の役人は、4月21日、ウイリアムズが応接方に漢文の条約文を示したことにより、応接方の記憶を介して、横浜において日米間に条約が締結されたこと、また同条約には、「舩中闕乏品」供給のため、下田港を条約調印日より、箱館港を翌年3月より開く旨記されていることを初めて知ったのである。しかし、それにもかかわらず、松前藩の役人たちは、幕府から未だ通知がなく、真偽のほどを判断しかねるので、信用することができないとうけとめていたことは注目されてよい。同日彼等は、アメリカ人の箱館上陸を許可し、翌日山田屋寿兵衛宅で応接する旨決定したが(「御用記写」)、これは、ウイリアムズが「われわれの説明を聞き、また条約文を熟読した結果、どうやら納得し得たようであり…奉行との協議は明日、陸で行なわれることに決った」(『随行記』)と記すように、松前藩の役人たちが条約の内容を理解した結果ではなく、あくまでも「穏便」穏に取り扱うべしとの幕命と、「兎も角も平穏ニ取扱候義専一ニ候間、異人共上陸之義抔は、強而差留候而は、気受も如何可之哉、左而已差支無之義は、異人共申旨ニ任せ不申候而は、決而平穏ニは参る間敷候条、程能取斗候様可致」(「御用記写」)との幕府普請役井上富左右の指示によるものであった。井上富左右は、ペリー艦隊の箱館渡来に備えて箱館に派遣された幕吏であるが、箱館の松前藩役人たちは、その後のペリーとの交渉で、その対応策や交渉経過のすべてを井上に相談・報告していることからして(「御用記写」)、井上は、箱館における日米交渉の重要な黒子的な存在であったといってよい。
 ところで、その後4月23日、ミシシッピー号ペリーと家老松前勘解由・用人遠藤又左衛門・町奉行石塚官蔵箱館奉行工藤茂五郎他応接方が会談した際(ペリーと松前勘解由との最初の会談)、ペリーより応接掛連署の日米和親条約正文(和文)を示され、かつ漢文条約の写しを与えられ、これによって松前藩側は、同条約の全容を初めて知ることができたのである。これについて「御用記写」は、「提督ヘルリより神奈川ニ而御渡之由仮名交り認候林大学頭様・井上対馬守様・伊沢美作守様・鵜殿民部少輔様御連名之御約定書御本紙、銅之目録箱様之物より取出し、又左衛門江相渡候間、即同人請取、席上ニ而読上、猶写取度旨ウリヤムス江申聞候処、是は提督より亜墨利加国王江差出候大切之書面ニ付、写候義は不相成旨申聞、前同様漢文ニ而認候方写置候を進可申旨申聞、亜国紙江認候御条約書壱冊差出、和文之御約定書与引替、元之如く提督支舞置申候」と記している。ことここにいたって、日米和親条約の存在を疑う余地は全くなくなったのである。
 ところが、松前勘解由等がミシシッピー号ペリーと会談中の「夕八時頃」(午後2時頃)、城下松前から箱館役所に急便がとどいた。それは、アメリカ船の要求により、「漂民撫恤」と「航海来往之砌、薪水食料石炭等船中闕乏之品々」を供給するため、下田・箱館の2港を開港し、箱館は翌年3月より開港する旨の老中牧野忠雅の書付と両港を開港する旨の触書(但し、開港期日の記載はなし)であった(「御用記写」)。これらはともに4月9日、江戸の松前藩邸詰家臣に伝えられ、4月22日、「弐駄早飛脚」で城下松前に到着したものであったが、条約文そのものは依然として知らされることはなかった(同前)。後者の触書は、4月9日付大目付・目付・3奉行宛老中達(『幕外』6-56)と同一文で、「亜墨利加一条写」にも収録されているが、同史料所収の触書文末に「是ハ市中ヘ不触」とあることから、同触は町名主までは知らされたものの、一般の住民には知らされなかったことが判る。箱館開港の件が箱館の住民に広く知らされたのは、同年12月のことであった(「御触書写」)。以上のような一連の諸事実は、外国・外交に関する情報を幕府が独占するという鎖国体制下で築かれた幕府の方針が、開国後にあっても依然として生き続けていたことを示すとともに、それが開国という新たな状況といかに矛盾するものであるかを示すものでもあった。