函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

序章 世界の中の箱館開港

第1節 安政2年の開港と異国とのつきあい

2 黒船渡来

 ともあれ、こうして松前藩は、アメリカ船の箱館渡来に備え、藩兵を箱館市中のみならず汐首岬から木古内村に至る近郊の要所要所に配置し、住民に対して行動規制を強化するとともに、箱館市中に木戸を設け、市街の海岸部に板塀をはりめぐらすなど、可能な限りの手段を講じた。こうした緊張した状況の中で、4月15日朝箱館沖に2艘の黒い異国船が姿を現し、「昼四ツ半時過」(午前11時過)には、山背泊沖に停した(「御用記写」)。この異国船の渡来が箱館の住民に大きな動揺をもたらしたことはいうまでもない。「亜墨利加一条写」はこの時の様子を次のように記している。「四月十五日巳ノ上刻(午前9時)、アメリカ船三艘汐首澳ニ相見ヘ候趣汐首より乗切参リ候ニ付、兼而御用意之櫓鐘御役所より打出し、夫より七面山之櫓鐘又は御殿山櫓鐘打出し、市中受付判(ハン)木打出し、兼而アメリカ舟当澗ヘ参リ候様承知いたし居候得共、市中騒々敷相成、在々江引越ものも有之、又は戸締付候族も有之、御役人中は夫々役場相守、厳重不申及、且又見物之もの有之哉も難斗候趣ニ付、辻権三郎様与申御役人市中端々ニ至迄早馬に打ち乗掛(駆)廻リ、万一うろんのもの有之ニおゐてハ、無用捨鞭ニ而打、其ものへ名前等聞尋(糺)し、厳重之御役柄ニ候」(( )内引用者)。短い文章ではあるが、市中の動揺ぶりや藩役人たちの緊張した様子をうかがい知ることができる。なお、これには「アメリカ船」とあるが、次にみるように松前藩側が同船を幕府から通告のあったアメリカ船であることを確認したのは、その後応接方が最初に入津した船に赴き、同船より松前氏家来宛下田奉行支配組頭の書状を受け取ったあとのことであった。
 さて、2艘の異国船が山背泊沖に停するや、応接方代嶋剛平蛯子次郎稲川仁平外足軽が1番入津の船へ派遣されたものの、「言語一切相分不申、メリケン与申事而已相分何事茂通じ不申」という状態。いたしかたなく手真似で渡来目的、類船の件、乗組人数等を尋ねたが、もとよりこうしたことを手真似でできるはずもなく、結局意志の疎通を殆どできないまま、ただ船長とおぼしき人物から1通の書状を受取ったのみで戻らざるを得なかった。ところが幸いにも、この書状は、松前氏家来に宛てた下田奉行支配組頭黒川嘉兵衛、徒目付中台信太郎連名の書状(安政元年4月9日付)で、内容は、先の林大学頭等応接掛連名の書状通りに心得、「穏便」に取扱うようにと記したものであった(「御用記写」、『幕外』6-59と同文)。その後「昼九ツ時頃」(正午頃)もう1艘の異国船が弁天崎台場沖へ碇したので、再び応接方(新たに藤原主馬関央が加わる)を同船に派遣したところ、先の渡来船と同様、下田詰の黒川嘉兵衛・中台信太郎連名の書状(内容も前と同文)を差し出したので、これによって箱館詰役人たちは、これら3艘の異国船がともに幕府から通告のあったアメリカ船であることを確認することができたのである(「御用記写」)。
 これら3艘のアメリカ船は、4月10日下田を出帆した3本檣、横帆式の帆走船マセドニアン号、ヴァンダリア号、サザンプトン号であったが(『随行記』『遠征記』)、松前藩側は、アメリカ船と知るや、4月15日、改めて海岸・市中取締向を厳重にするよう申し達すとともに、その旨を亀田詰佐藤大庫、有川詰吉田修三・種田徳左衛門、茂辺地詰近藤族、泉沢詰駒木根徳兵衛へ達した(「御用記写」)。なお、「御用記写」の記述と『随行記』・『遠征記』の内容をあわせ考えると、「御用記写」の1番入津船は、ヴァンダリア号、2番入津船はマセドニアン号、3番入津船は、サザンプトン号とみてほぼ誤りがないようである。
 これら先発の3艘の任務は、箱館湾及び箱館港内の測量にあったため、翌16日には早くも測量を開始し、17日には3艘ともに澗内に碇して港内の測量を開始するとともに食料・薪水の供給については、すでに幕府より指示があったためにそれに応じたものの、市中見物についてはこれを拒否した。これらの交渉は、すべて漢文での筆談を介して行われたが、その筆談の中で、3艘の他にさらに「火船」「火輪船」が渡来することを知らされた(「御用記写」)。「火船」「火輪船」とは、中国語で蒸気船の意である。
 果たして4月21日「朝五ツ時頃」(午前8時頃)、先の3艘の帆船よりはるかに大きい2艘の「火輪船」が箱館沖に姿を現し、箱館山沖をまわって、澗内へストレートに進み、「昼四ツ時頃」(午前10時頃)2艘とも沖の口役所沖に碇した。この巨大な「火輪船」こそペリー艦隊の旗艦ポーハタン号ミシシッピー号であった。しかも先の3艘とちがって、いっきに港内に入り、沖の口役所沖に投錨したのである。まさにペリーらしい入港のしかたであった。3艘が碇するや、ただちに応接方藤原主馬関央代嶋剛平蛯子次郎が橋船でポーハタン号に赴き、ペリー付通訳ウイリアムズと会見、次いでマセドニアン号に向かい、同船で先の松前氏家来宛応接掛林大学頭等の書状及び浦賀奉行組与力合原猪三郎・徒目付平山謙二郎連名の書状(共に3月9日付)を受取った。後者には、「亜美理駕(アメリカ)船伊豆守(松前崇広)殿領分箱館湊為見置罷越候義ニ付、林大学頭初連名之別紙壱通異人江相渡置候間、披見之上書面之通可取斗候」(( )内引用者、「御用記写」)とあった。

ポーハタン号


ヴァンダリア号


マセドニアン号


サザンプトン号


ミシシッピー号