函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

序章 世界の中の箱館開港

第1節 安政2年の開港と異国とのつきあい

2 黒船渡来

 4月に入ると、松前藩の対応策はより具体的なものとなった。まず4月3日、白鳥新十郎、蛯子半五郎、代嶋剛平、西村平左衛門、村田林人、西村次兵衛及び各名主に市中締向兼帯を命じるとともに(「亜墨利加一条写」)、領民に対し、以後アメリカ船退帆時まで御用以外で箱館に往来することを禁止し(但し、親病気などの特別な事情がある者へは鑑札を与えて特別に許可)、知内村及び上ノ国村-木古内村間の峠番所他で領民の往来を厳しくチェックすること、また蝦夷地各場所行の廻船は対象外とするが、城下及び在々の地廻船にあっては、陸路往来の場合と同様アメリカ船退帆時まで箱館への入港を禁止する旨厳達した(「北門史綱」巻之1、「湯浅此治日記」)。その後藩庁は、家中・寺社・領民に対しアメリカ船渡来の際の対応方法に関する触を相次いで出していったが、4月7日には特に箱館市中を対象にした18か条からなる触が町役所から出された(「御触書写」)。その内容は大略次のようなものであった。
 (1)アメリカ船が箱館沖へ現れたとの合図があり次第、「町々在々之人足共」は早々役所及び各自の持場にかけつけること。(2)アメリカ船渡来の際、「浜表」へ出、あるいは屋根に登り見物することを禁止する。(3)アメリカ船滞留中は、「人夫相勤候者」以外は商用であっても、小船で乗りだすことは勿論、海辺へ出て徘徊することを厳禁する。(4)「当澗居合之船々大小共」、以来残らず沖の口役所より内澗の方へ繰入れ、船を繋ぎおくこと。異国船退帆まで出帆を禁止し、かつ異国船へ近付くことを禁止する。(5)アメリカ船滞船中は、どのようなことがあっても、アメリカ人に対し決して「手荒」なことをせず、何事も「穏に申なため」、さからわないようにとの幕命を守り、「町々婦人小児之分」は、大野・市ノ渡辺の村々に親類・身寄のある者は早急に引越すべき筈ではあるが、そうなれば多くの百姓が混乱し、大変困ることになるので、引越しの件を猶予してくれれば、「婦人共」は老若にかかわらず必ず取締るとの町年寄たちの申立も余儀なきこと故、それを許すので、この点をよく心得、「不束之義」なきよう厳しく申付けるべきこと。(6)山背泊近辺、築嶋桝形外、亀田浜、七重浜等は、場末で人家も少なく、夜分密に上陸の程もはかりがたいので、これらの地の婦女子は老若とも全員、男子も12~13才以下の者は、もよりの山の手辺へ早急に引越すこと。難渋の者には手当を与える。(7)箱館に来ている領民及び他国者は、調査の上、早々用事を済させて帰郷させ、遊民体の者は退去させること。(8)異国船滞留中、「牛飼之者共」箱館市中及び海岸近くの村へ牛で諸荷物の運送をしないこと、浜辺近くの野山での放し飼いは禁止。(9)異人たちが上陸した場合、馬士及び在々の者は途中より早々引返すこと。(10)「酒之義者異人共殊之外好物之由」、少しでも呑ませれば手荒なことをするので、一切目にかからぬよう「悉く蔵入」し、店先には置かないこと。売買は「蔵内」で行うこと。(11)呉服店・小間物店は商品を片付けること。もっとも、餅・菓子、草履・草鞋等は店先へ置いても良いが、彼等が望む物を与えなければ、不本意に思い、自然角立つようなことがあってはまずいので、食物に限らず差支えのない品を無心した場合は、これを与えてもよい。もし返礼品を差出しても、一応は差戻し、強いて差出す様子なれば、その品を預り置、早々町役所へ差出すこと。遣しがたい大切な品は、必ず隠し置くこと。(12)アメリカ船が入港の際、もし発砲しても騒立てず、静かにしていること。(13)海に面した住居は、いずれも戸障子に必ず締をつけ、立合障子には目張りをし、決して覗見等をしないこと。(14)火の元には特に念を入れ用心すべきこと。(15)年回仏事等に相当しても、異船滞留中は延期し、新喪の時は、葬具等を手軽にし、男子のみで夜分に物静かに墓所へ葬送すること、追善もこれに准じ穏便に営むこと。(16)異船滞留中は、観音・薬師・愛宕・七面等の山にある神仏への参詣を厳禁する。(17)音曲・所作は、異船滞留中厳禁。(19)異船滞留中、取とめのない風説は厳禁。
 以上のようにこの触は、アメリカ船の箱館渡来を前にして、入港船をはじめ箱館及び近郊住民の行動について様々な規制を加えたものであったが、(5)(6)(10)(11)の表現に端的に示されている如く、これらの諸規制は、基本的には先の幕府の達書と松平乗全の指示をベースとしたものであった。しかし、同時に注目しておきたいことは、この期に類似した触が領内に数多く出されているが、罰則規定があるのは、この触のみだったということである。すなわち、(2)(3)(4)(13)で「召捕、入牢」、(5)で「重御咎」とした上で、さらに(18)の次の文で「右之通被仰出候条堅相守、下々ニ至迄相諭し可申、若心得違之もの於有之者、当人者不申及名主町年寄町代・親類・組合迄急度御咎被仰出候間、其旨相心得厳敷可申付候」と記していた。つまり、藩の命令に従わない者は、本人はいうまでもなく名主町年寄町代・親類・組合まで咎を申し付けるというのである。松前藩が住民の動向にいかに神経をとがらしていたのかを知ることができよう。米艦入港のほぼ1週間前のことであった。