函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編2

第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ

序章 世界の中の箱館開港

第1節 安政2年の開港と異国とのつきあい

1 箱館開港への途

 その後2月19日、横浜応接所で開催された第2回日米会談において、ペリーは早速日本の条約草案に対する回答を提出した。その内容は、『遠征記』・『遠征日記』に記されているが、ペリー回答の大きな特徴は、薪水・食料・石炭及び欠乏品の供給と漂民の保護それ自体については受諾したものの、鎖国体制下の長崎を介した対外関係に類するものは全面的に拒否し、したがって、長崎を介した関係を拒否するとともに、漂流民その他日本の諸港に渡来するアメリカ人の身体・行動にいささかでも拘束を加えるような条文にはすべて反対し、さらに長崎以外の諸港の開港を強く要求したことである。そのため、その後の日米交渉の焦点は、長崎以外の諸港の開港と開港場における遊歩区域をめぐる問題へと絞られていった。
 同日の会談でペリーは、日本東南に5~6か所、北海に2~3か所(「横浜応接所日米対話書」『大日本維新史料』第2編ノ4。『遠征記』では「五つの港」)の開港を要求したが、これが拒否されると、浦賀・神奈川・鹿児島・松前・琉球(那覇)などの地名を具体的に提示して、これらのうち少なくとも3港を開港するよう強く迫った(前掲「横浜応接所日米対話書」、『遠征記』)。これら諸港のうちペリーが特に執着したのは松前・琉球(那覇)の2港と江戸湾内の浦賀か神奈川の1港で、とりわけ松前については、応接掛が松前氏の領地故即答できないと返答するや、松前へ艦隊を廻して松前氏と直接交渉すると迫ったほどである。しかもペリーは、これら諸港の開港に関し何らかの具体的回答を得るまでは日本を離れないと告げ、長崎以外の諸港の開港を日本に強く迫ったのである。ことここに至って、応接掛はやむなく下田開港を提示するとともに、他港については2月26日改めて回答する旨答えた。これによりペリーは、下田については、調査の上良港と判ればとの条件つきでこの提案を受入れ、早速下田を調査した(『遠征記』、『遠征日記』、2月20日付勘定奉行石河政平等宛井戸覚弘書翰〔『大日本維新史料』第2編ノ4〕)。
 ところで、応接掛がこの第2回日米会談でペリーの要求した諸港の開港を総て拒否しながら、なぜいとも簡単に下田開港を提案するに至ったのであろうか。これには次のような事情が存在していた。すなわち、ペリーの予想以上の強硬な態度もさることながら、応接掛は、すでに老中阿部正弘より「湊之地所伺候上ハ、御国法長崎被申聞セ、彼方不便之趣申立候ハヽ、下田辺と答候積」(『水戸藩史料』上編乾)との極秘の指示が与えられていたことである(石井孝『日本開国史』)。しかし、下田開港の件は幕閣内で正式に決ったものではなかった。それだけにその後、26日のペリーへの回答内容をめぐって幕閣内で論議が紛糾したが、最終的には2月22日、下田・箱館を開港する旨正式に決定した(「村垣淡路守公務日記」『幕外』付録2、以下「公務日記」と略す)。幕府が箱館開港を決定した理由は定かでないが、嘉永6年7月ロシアの対日使節プチャーチン長崎に来航し、翌安政元年1月2日幕府に提出した日露修好条約草案(『幕外』4-6)の中でも箱館開港を要求していたことや、ペリーが要求した諸港の中で、箱館江戸から遠く離れた辺境の地にあったこと、などによるものとみられる。
 ともあれ、こうして幕府は下田・箱館2港開港の方針を決め、応接掛はこれをうけて2月25日、ペリーに「貴国より往来する所の船々、若食料薪水に乏しき事あらは、箱館港に於て是を給せん事、此度請ふ所の旨に任すへし、但其地僻遠にして、それそれの設を営んも、頗る時日を移すか故に、来年の秋七月 我国の月数を用うへし を以て始とすへし」(漢文書簡「約書」の和解、『幕外』5-182)と通告した。ペリーは、調査の結果、良港という説明に一致している事実が判明した場合との条件つきでこの提案に同意したが、開港期日については不満であったため(『遠征記』『遠征日記』)、翌2月26日の日米会談で、翌年3月開港を強く主張した。その理由は、応接掛井戸覚弘によれば、「年々三月より七月迄之内、松前最寄ニ而漁業(捕鯨業)仕、七月は、もはやいつれも帰国仕…七月後は御国地(日本)ヘ参り不申」(( )注引用者、2月26日付勘定奉行石河政平宛井戸覚弘内状〔『大日本維新史料』第2編ノ5〕)という点にあった。しかもペリーは、これに加え、下田・箱館へのアメリカ人の駐在をも合せて要求したのである。これには応接掛もその対応に苦慮したらしく、そのため井戸覚弘は、「夫々彼国之人両湊江差越置申度との儀申入候、此儀ハ是非々々断可申と奉存候、夫ニハ七日之処を三月与申方は品ニ寄承届、異人差越候儀は、是非々々断付申候方可然と考申候」(同前)とさえいっている。つまり井戸は、ペリーの強硬な態度におされて、下田・箱館へのアメリカ人の駐在は絶対に認めることができないが、この要求を拒否するためには、3月開港もやむなしと判断するに至ったのである。かくして応接掛は、2月晦日ペリーに対し、下田、箱館両港とも明年3月より開港する旨返答した(『幕外』5-222、「墨夷応接録」『幕外』付録1)。