函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編1

通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世

第5章 箱館開港

第14節 生活・宗教

1 生活

 箱館の月次(つきなみ)風俗については、第4章第5節に述べたから、『箱館風俗書』から拾って補えば次の通りである。
 
    函館月次風俗の補拾
○社寺の礼
ものもう声とは、黒羽織徒士の内四、五名、十歩計り先に進み、ものもうものもうと呼歩行くなり。ものもうとは(物申すという略語ならんか)、僧侶の礼は殊に多人数なり。檀家重立候族より、黒羽織大小徒士の者相雇い、供廻りすべて二十名より二十五、六名、寺僧を合して三十五、六名ばかり、昼餐は檀頭(檀家総代)に於いて予て支度致し置く処也。
神官の礼は、僧侶に比して人数少なきも、行装大略相似たり。
町年寄の礼、是又人数少なきのみにて社寺に変る事なし。
○帳祝い并船祝い
此の日は新帳簿を床の間に飾り付け、日頃交際の人々并得意先等を招待して盛宴を開くをいう。右招状を受けたる人は何れも正服(紋付袴)にて宴席に連り、初めは三重の木盃に冷酒を湛え、つまみ肴にて一順の正式を終り、然して後芸妓輩燗酒を携え出、追々大声喧囂の酒宴となるなり。席順は旧家又は老人を以て上席とす。然れども坐次整理する迄は、やや小半時を費して漸く席次定るなり。二巡三巡酒気次第に浸潤して、手の舞い足の踏み出し、放歌踊躍歓已に極り、宴正に終えんとするに当り、亭主役なる者更に一大白(大盃の事)を持出て、自分一飲して然して是を上席の客に進む。酔後の上客又一飲して次第に次席に送り、最後に亭主役再び快飲して是を納む。之を皆同事(かいどうじ)という(この皆同事の出るは客も予め承知致し居るが故に、成たけ酒をひかえて然してこの皆同事の量に当る覚悟あり)。三、四合入より五、六合の大盃を用ゆる也
此時や衆客泥の如く酔倒れ、酔歩蹣跚(まんさん)漸く歩むは大上戸ならざれば極めて我慢強き豪傑なるべし。
此日又別に船祝いとて、湾中碇の船々にて祝賀の宴を開く也。こは神官を招きて船魂を祭り、上客を招待して正式一遍の饗宴を終り、一次の上客を船より送りて第二次の酒宴を開く。此時は船主・水主懇意の族、問屋附船の手代等船中狭しと居並び、笛あり太鼓あり、粲絃急曲、皿鳴り、樽躍り、充分大快飲を尽して去るなり。こは碇の船毎皆然るにはあらざるべし。
○雛見物
女児のある中等以上の家には、何れも雛棚をかざるが故に、雛見物とて女児輩群をなして家々の雛を勝手に見歩行(あるき)し習慣もありけり。
○幟并凧
男児ある中等以上の家々には、立派なる大籏幟を家の前に押立、小前の家と雖も夫相応の紙幟(のぼ)りを立てるもあるなり。男児多き大家は三本乃至四本の大幟を立てるが故に、門前幟見物にていと賑わしく覚えたり。
凧は五月に入りて初めて大凧を上る也。こは四月迄の間は鯡漁の為惣ての鳴物を禁止せしも、五月に入り鯡漁も終りとなるが故に鳴物停止を解くが為也。
○競馬
以前は函館市中に於て競馬せしと言伝う。いつの頃よりか、亀田八幡宮華表(鳥居)前に於て年々競馬の催し有ける。升形とは現今地蔵町鶴岡町との境に、升の形に土塁を築きて市中の入り口とせしものなり。
○地蔵祭り
六月二十三日昼過より、参詣の善男善女群をなして甚だ賑わえり。わきて女児輩は今日を晴れと着飾り、いと花やかに参詣致せしが故に、順路の町々殊に賑わえり。地蔵町辺の家々にては、赤飯或は素麺等の支度致し、懇意知己の女児には晩食等を饗せしものなり。此地蔵祭りは八幡宮の祭礼に次ぎて賑やかなる祭りなり。此他愛宕山祭り、天神祭り、弁天祭り、神明祭り、金毘羅祭り等これあるも、地蔵祭りは特に勝れて賑かなるが故に、本文にも是を掲げたる事なるべし。
〇七夕祭
大額灯籠は方二間余りに囃子屋台ようの物を四ツ車のうえに組立て、幕を四方に張廻して、此中、笛、太鼓、三味線等囃子方、其他の人数二、三十名計りを乗せ、其上には竹を骨とし紙を皮とし種々の物像を製作し、像によりて種々彩色を施し、夜るは数百丁の蝋燭を点ずるが故に、光彩燦爛、製作の工みなる、彩色の鮮かなる、虎あり、象あり、孔雀あり、鯛あり。英雄の像、勇婦の姿、其他器物、翫物の類等、思い思い人々の好む処千差にして万別なり。此車を曳くもの数十百人。大額灯籠は幅一間半位より三間に至り、長さ三間或は四、五間に至るが故に、街路幅の狭き処は混雑喧噪、果ては彼我互に殴打等往々これあり、中額灯籠は数十人これを肩にして持行くなり。かくの如き額灯籠大中混じて三、四十或は五、六十、市中至る処喧々又嘩々、此他数百千の小灯籠或は五十或は百と、組を異にし、隊を分ち、童男童女綺羅を飾り華を粧い、太鼓に笛に豊年万歳を唱えて市中を押廻るの有様、六日夕より七日昼にかけて人々皆狂するかと怪しむ計り。実に一年中の賑い此七夕祭りを以て最盛とするものなり。(大灯籠は一家一手にて製作するものあり、又は数家組合うて製作するもあるなり。)
○八幡宮祭礼
祭礼の行装は、長柄数十本、弓数十張、鉄砲数十丁、其他挟み箱其他何々等数百人の先供、之を奴(やっこ)と唱う。此奴の足並揃いとて数日前より演習するとかや。次に黒羽織大小の徒士数十名、裃着用の者数十名(此社裃着用は皆一家の主じ也)、神官数十名(在々の神官悉く来函)、神輿の前後は太鼓鼕々(とうとう)、笛喨(りょう)々、数百千の行装頗る静粛也。最後一丁計りを隔てて船山・蛯子(えびす)山等次第に列続。此日祭礼惣奉行として町年寄の内一名厳然として行列の迹を守る。
○船山
内澗町より出す処の船山は鳳凰頭の屋形船にて、船身朱或は他の彩漆を以て之を塗り、彼の錦絵に見る処の鳳凰頭屋形船を限前に見るが如く、長さ五、六間、巾二間半位。船飾りの彫刻は悉く金銀をちりばめ、猩々緋の帆は風をはらんで勇ましく、紫縮緬の幕は屋形を包みて奥床し。其のうえに朱羅紗へ金糸銀糸を以て龍虎の縫模様ある半幕を張廻し(これを水引という)艫の方にも同様の羅紗、或は天鵞絨に金糸銀糸惣縫の艫かくしを下げかけたり。七ツ道具は整々として舷に押立、五色の吹流しは翩翻として浜風に翻り、柱のうえには金の千なり瓢を輝かせり。
櫓の上には神功皇后の御像に武内宿称の大人形を飾り立て、三韓凱旋の有様を擬するにやあらん、実に善美を尽せし船山にぞある。さもこそあらめ物価最低の時節に有って猶千有余金を費せしといふ。弁天町の船山は鳳凰頭にあらざるも船体の結構、飾具彫刻の彩色等、大略内澗の船山に彷彿たり。帆柱の下には蛯子鯛を擁して悠々然たるを見る。山ノ上町・大黒町は船にあらずして何れも方形なり。大黒山は大黒を飾り、蛯子山は蛯子を飾り、何れも囃子方は揃の衣装にて笛、太鼓、三味線、摺り金、鼓弓等面白く囃し立て、わけて大黒山は女児の(多くは遊女屋児女、芸妓輩の児女等)手踊りあり。故に此一卜山は他の行列に後れて優々町内を躍り行く也。此山々を曳行く人数おびただしく、得て算うべからず。此他、年により他町より臨時急製の祭り山を曳き出行事もあるなり。(但し、八幡社祭礼先供の奴は、下モ在より来る也。下モ在とは銭亀沢、志のり、小安等の諸村落也)
○蛯子講
漁業家は一年の収獲滞りなく取揚げたるを祝い、各商家も略一年の勘定平穏無事なるを祝して、福神を(蛯子・大黒)祭る也。懇意知己の者出入の者を招きて、豪飲飽食歓を尽して祝う也。
○餅搗
餅搗は十二月廿日頃より廿五、六日頃迄、各自の家々にて正月の祝い餅を搗(つく)也。今日の如く賃搗の便利もこれなき故、大家には懇意知己其他出入の者等の祝い餅を合併し、其他の家々にても或は四、五軒分、或は六、七軒分皆合併して搗き立てるが故に、手伝いの人数も随って多く、殊に餅搗は夜分に限るが如く、夜通し笛・太鼓・三味線・明き樽をたたき立て、大騒ぎに騒ぎて近所近辺の眠安を妨ぐるも、各自相互の事故別に怪しかる事とも思わぬ也。此祝い餅の音を聞付て祝儀を貰いに来る座頭の坊等もあり。是にて先一ヶ年月次の行事も目出度相済み、各々門松を取立てるばかり也。

 
 以上のごとく、まさに金に糸目をつけない、まことに豪華絢爛(けんらん)たる年中行事が繰り広げられているが、もちろんこれは往時の経済の豊かさであり、その覇気はよしとするも、どこか新興的な心のおごりが見られる。