函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編1

通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世

第5章 箱館開港

第10節 漁業


庵原菡斎の墓と「蝦夷地土産

 鰊漁業についても特に記すべき発達も変遷もなかったが、ただ安政2年に珍しく非常な大漁があった。その景況を庵原菡斎の『蝦夷地土産』によって見ると、大略次のように書かれている。
 安政2年3月13日、箱館港口の地、押付、山背泊、弁天崎の辺へ、鰊がおびただしく寄せ来たった。漁民はもちろん市中の人々までが、網を準備し、持符船に乗って出漁した。14日、15日に至ってますます「群来(クキ)が付」き、そのため海水が真白になるほどで、漁獲はすこぶる多かった。船1艘に網1差し(長さ約3メートル余、幅約2メートル余の網を4枚継ぎ合せたもの)で漁をするのであるが、船の大小、網の広狭もあって一様ではないものの、1度の網おろしですぐに満船となり、1日に幾度となく陸揚げをした程であったから、その量ははかり知れなかった。20日ころから石崎、銭亀沢、志海苔の各村の浜や、大森浜にも群来があり、相当の漁獲を挙げた。このような大漁は、30年来か、あるいは60年来のことだという古老もあり、とにかく稀にみる大漁であったので、街は活況を呈した。在勤の箱館奉行竹内保徳は、このため奢侈(しゃし)に流れ、却って不良の結果を招くことを憂え、次の通り諭告を発したほどである。
 
鰊漁の儀近来稀なる大漁にこれある趣、依っては銘々心弛(ゆる)み、自然不益の費などこれあるものに候条、不漁の年柄を顧み、油断なくいよいよ質素を相守り、身上堅く相保ち候様、厚く心懸くべく候。
右の趣、小前末々迄洩れざる様相触るべきもの也。

 
 箱館市中で、漁師はもちろん、素人の網持ち、豪商の持つ網を合わせると、その数は、およそ1万差しばかりと見積られ、これをもって数えれば、1差の漁網に2石とみて、実に2万石に余る漁獲があったということになる。わずか数日の間にこのような漁獲をみたことは、市中の者にとって、大きなよろこびであった。
 なお、これは箱館の前浜ばかりではなく、茅部地方にもおびただしく群来し、櫂を水中に立てても倒れない程であったといい、この辺では地引網を使用していたが、おびただしい魚のため網袋は裂け、あるいは縄切れがするなど辛うじて網引きをした。また婦女子らは網から漏れて流れ寄ったもの、落ちこぼれたものを拾い集め、少ないものでも1人12本、(鰊〆柏一1で、およそ70ないし100キログラム)多いものは26、7本を得、8、9両から最も多いものは20両余も収得したという。西蝦夷地ではこのような豊漁は珍しくないが、箱館地方ではまことに稀有のことであった。
 従来鰊漁期には、漁民の申出によって、官は鐘、太鼓、火葬等の禁止を布達していたが、安政4年太鼓は差支えないことになり、鐘、火葬は同5年から禁止しないことにした。この時漁民は種々苦情を述べたが、官において説諭し、ただ山背泊の火葬だけを停止させた。