通説編第1巻 第3編 古代・中世・近世
第5章 箱館開港
第6節 開港と流通構造の変化
2 貿易商人の成長と沖ノ口の対応
わが国の貿易において特記されることは、箱館奉行は、ただ居ながらにしての貿易に甘んずることがなく、進んで海外に赴き、物産を販売し、その利益を船舶の維持費に当て、加えて外国の事情を知るとともに支配向きの者の航海の訓練をも行わせようと計画したことである。安政6年2月次の案を議定し、6月、時の奉行、堀利熙、村垣範正、竹内保徳、津田正路が連署して幕府に申請した。
この意見は急速に実行をみるには至らなかったが、文久元(1861)年に至り、諸術調所教授武田斐三郎らをして、箱館において建造した西洋型帆船亀田丸を操って露領に赴かせることになった。そして4月21日箱館港を抜錨し、デカストリー湾を経てニコライエフスクに至り、貨物を交易し、地理・風俗・経緯度・浅州暗礁などことごとく調査して、8月9日箱館港に帰った。なお、翌文久2年清国の香港、オランダ領バタビヤヘ派遣するはずであったが果たさず、元治元(1864)年になって、さきにアメリカから購入した健順丸を上海に派遣した。この船は海産物を積み、2月9日箱館港を出港して上海に至り、これを売却し、砂糖・綿・水銀などを購入し、かつ、該地の状況を視察して帰った。 箱館奉行は、蘭学者武田斐三郎を招いて通訳を養成すると共に、蘭書によって外国の技術を研究、採用せしめ、諸術調所と称して青年の育成に当ったが、亀田丸、建順丸等の航行もその実習を兼ねた調査であった。 |