函館市/函館市地域史料アーカイブ

函館市史 通説編1

通説編第1巻 第2編 先史時代

第3章 函館の縄文文化

第4節 函館のストーン・サークル文化

 日吉遺跡は、現在の函館市交通局日吉営業所の南側で、北海道勤労者住宅生活協同組合の団地内にあった。ストーン・サークルの一部は将来の遺跡公園用地として保存されている。この遺跡は縄文時代後期の遺跡として知られていたが、昭和45年に北海道勤労者住宅生活協同組合の団地造成と市交通局のバス営業所の建設工事が進められることになり、函館市日吉町遺跡発掘調査団が組織されて9月25日から1か月間の発掘調査が実施され、この結果ストーン・サークル住居址などが発見された。この遺跡は日吉段丘と呼ばれる段丘上にあって、北側に第2段丘面(標高80~120メートル)があり、遺跡のある段丘面はそれより30メートルほど低い第3段丘面である。遺跡の標高は40から50メートルで、東側には深い湯ノ沢があり、南側と西側には段丘面が伸びているが、遺跡を区画するように南から西に小さな沢が入り込んでいる。東方の湯ノ沢と西の沢まで200メートルほどあり、西の沢を境に道立日吉学院用地になるが、ここにも縄文時代の遺跡がある。遺跡の発掘は沢に近い地域を主とし、住居址などが発見されたが、ストーン・サークルの存在については当初予想もされなかった。ストーン・サークルが発見された地点は住居址などが発見された地点から70メートル離れていて、比較的小高い場所である。沢などで区画された地域のほぼ中央から北寄りであった。この付近には土器片や石器などの遺物もほとんどなく、立石の痕跡も見当らなかったが、かつて畑を耕していた人が昔から大きな石がこの場所から出るので何かがあるのではないかとの話が端緒である。注意してみると近くの畑道や畑作をしていた地主の家の軒先に柱状節理の石がある。この石は戸井や日浦など下海岸あるいは中野ダムなどのあたりにある石で、遺跡の付近には見かけない石である。試掘によって地表から40センチメートルの深さに積石のような配石があり、発掘区域が拡大されるにつれて東西20メートル、南北18メートルの範囲に配石があった。この状態は臼尻遺跡の場合とすこぶる異なる。臼尻では円形の自然石の葺石が墓壙周辺にあったが、ここでは大小の自然石が一面に配石され、所々に5、60個の自然石がまとまって細長い柱状節理の石が何本かある。長いものは60センチメートルもある。自然石と柱状の石はどのような意味を持っていたのであろうか。大湯のストーン・サークルのように日時計形をしたものはない。あるいは集積が墓であるかも知れないと考えて発掘したが、一部に不定形の穴があった程度で墓とは断定できなかった。こうして発掘が続けられ、積石など配石が分布する地域の東南部に柱状節理の立石が環状になって現われた。立石は8本より残っていないが、その径が約6メートルで、黄褐色の粘土層の面を精査したところ中央に方形の掘込みが出てきた。深さ45センチメートルと深くはないが、方形の掘込みはあらかじめ磁石で計測したように東西南北の方位と一致する。墓壙の大きさは長軸すなわち東西3.3メートル、短軸の南北2.7メートルである。墓壙の内部は壁面に沿ってU字状の溝があって四隅に柱穴のような円形の穴があり、排水溝である。床面には小さな石を一面に敷き詰め、人骨は残っていないが副葬品のヒスイの飾り玉が3個、やや東寄りの床面で発見された。北寄りの床面には赤色土の堆積があり、縄文時代後期の土器片が6点出土した。この土器片は墓壙を造る時に混入したもので、墓壙周辺から出土したものと同じ土器形式のものであった。墓壙の周辺には北側に墓壙を掘った土の堆積場と南東に深い溝があった。この溝はどういう意味のものであったかは不明であるが、ストーン・サークルという聖域を示す溝や土塁は見当らなかった。

日吉遺跡の全景


日吉遺跡のヒスイ飾玉(市立函館博物館蔵)

 日吉のストーン・サークルは、これまで調査された北海道や秋田県などの例と形態が異なっている。立石に柱状節理の石が用いられていることも特色である。これはあらかじめ10キロメートル以上もの遠い地域から運び込んだもので、環状の立石以外に、自然石の集積の中にあったものなど、ある意図に基づいて置かれたものであろう。発掘された柱状節理の石の多くは倒れていたり、幾つかに折れていて、それがどのように立っていたのかがわからなかったが、ある配列をもって立っていた時の墓域は見事なものであったろう。小高い丘に設けられた墓は一般の墓ではなく、特殊な身分、すなわち部族長あるいは長老のものであったであろう。墓から出土したヒスイの飾り玉の1点はミカン玉型で、質もこれまでに発見されたものより緑色で透明度が高い。この飾り玉も交易などで手に入れたものであるが、中国大陸などから渡ってきたとも考えれる。