札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第8巻1 統計編

Ⅴ教育・文化

16 文 化
 この文化の統計が対象にするのは,時期的には1910年(明43)から1942年(昭17)までである。芝居・歌舞伎・寄席・浪花節・見世物などの多様な興行とそれらをになう様々な芸能者の時代から,活動写真が大正期に隆盛し,1932年(昭7)以降トーキー映画の時代へと推移する。映画が娯楽の王者となってゆく。また1923年(大12)の関東大震災を機として,複製文化やモダニズムの文化が札幌にも現われるが,ラジオ・トーキー映画・安価な出版物などの新しいメディアは,新中間層や労働者といった新たな担い手による大衆社会状況に照応したものであった。
 
札幌警察署管内
 第345~348表は『北海道庁統計書』から作成した札幌の諸興行にかかわるデータである。第345,346表は,入場料が徴収された札幌警察署管内の演劇および諸興行の上演延日数である。札幌警察署管内は,1915年(大4)以降でいえば,札幌区(市)のほかに,豊平町,札幌村,白石村,藻岩村・円山町,琴似村,篠路村,手稲村,広島村,恵庭村,千歳村の周辺市町村を含む。
 明治初年以来,国家的秩序へ民衆生活を再編するために,秩序の制度化と風俗の強制がなされてくるが,1900年(明33)の治安警察法と行政執行法の施行以降,とくに社会や風俗に対する警察の統制が強まる。札幌警察署管内の演劇および諸興行にかかわる詳細なデータが『北海道庁統計書』には1910年度から掲載されるが,こうした全国的な動向と連動した形で,北海道の警察でも興行に関する統制と情報の収集につとめたと思われる(内務省史 第2巻,大日方純夫 警察の社会史)。
 
活動写真
 明治の末年には札幌に活動写真の常設館はなく,上映は不定期であり,芝居や寄席などが人々の娯楽の中心であった。1908年(明41)正月元旦のさまを『北海タイムス』は,「大黒座・札幌座の両劇場には,午前の十一時頃から詰めかけ,宵の口から札幌亭・南亭・開進亭の寄席も又一杯で両劇場では特に大入の札を掲げた」と報じる(北タイ 1908.1.3)。1910年の地図には狸小路に東から札幌亭・南亭・遊楽館・開進亭と小屋が立ち並ぶさまを記す(札幌と映画 さっぽろ文庫49)。
 1912年(明45)3月に札幌ではじめての活動常設館である第二神田館が狸小路に開館する。大正期にはいっては,1919年(大8)の盆興行で,錦座,第一・第二神田館,エンゼル館,遊楽館,中央館,札幌館といった常設館で,米国パテー社の活動写真や時代劇の「八百屋お七」,芝居と活動写真が混合する連鎖劇などが上演された(市史 通史3)。1932年(昭7)正月の,松竹座(南4西3)における「マダムと女房」の封切をもって本格的なトーキー時代が幕開けする。
 なお第345表で,1913年(大2)から15年までの活動写真の興行日数は,歴史画・演劇画・其他の3分類のそれぞれが記される。1915年でいえば,歴史画1425日,演劇画3105日,其他6608日となっている。1913年から18年の活動写真の異常な数値の高さは,その後の時代と統計のとり方が違って,学校・社会教育なども入っているのではないか。『札幌教育史』では,1916・17年から児童の映画教育が本格化することが指摘されるが,検討すべき課題である。
 
映画・演劇および諸興行
 さて,1922年(大11)に延べで2000日上映された映画は,日中戦争がはじまる1937年(昭12)には3倍の約6000日となっている。演劇の延べ日数は,1931~33年に400日を超えている。ここでいう演劇とは,数の上では新劇よりも圧倒的に伝統的な歌舞伎・芝居の類が多かったであろう。また明治末年では,上演延べ日数のトップは浪花節であり,浄瑠璃とともに大正から昭和にかけて漸減している。しかし日中戦争下では再び浪花節はブームになったという。
 興味深いのは,曲馬・競馬・曲芸・手品・剣舞・手踊・奇術とその多彩な大衆芸能のありようである。こうした見世物・大衆芸能は,とくに札幌祭の時に集中する。しかし見世物は大正期から昭和初年にかけて,統計上,5分の1ほどに激減する。この問題は,1922年11月19日に北海道庁令「興行場及興行取締規則」が定められ,さらに24年3月7日には,演劇興行が常設の劇場以外では禁じられたことと関わるだろう。
 第347表,札幌警察署管内の活動写真・演劇・寄席(演芸)の延べ入場者数からは,活動写真の隆盛と演劇の衰退が読み取れる。大正期には,札幌のあちこちで東京から来た役者や道内の役者などによる,様々な演目の歌舞伎や芝居が行われた。こうした状況は昭和に入って変化してゆく。このことは第349表で,1922年(大11)に男37人,女19人いた俳優が33年(昭8)にはO人になっていることから明瞭である。札幌の劇場にいた座付きの役者が昭和にはいなくなるのである。たとえば,1923年に西田座(南5西4)が消失して以降,実演を行う劇場は須貝富蔵の経営する札幌劇場だけであった(杉本実編 札幌の劇場記録)。
 なお第349表の1923年に札幌で男女合わせて19人いた法貝(界)節の遊芸稼人とは,筝・三味線・太鼓などの奏者が派手な印半纏で門付けした芸人であった(日本国語大辞典)。また大正末から昭和にかけて浄瑠璃の語りである義太夫節を特技とする芸妓が多くいた(札幌の邦楽 さっぽろ文庫72)。統計をみると,遊芸師匠の内では三味線が減り,踊りの師匠が増えている。戦前期を通じて,踊り・三味線・琴などの遊芸は,花柳界や一般家庭の子女にも身近なものであった。
 第348表,札幌警察署管内の人口100人に対する入場数の統計からは,一人当たり,年間何回くらい映画や演劇を観たかがうかがえる。1922年に一人当たり年に3回観ていた映画は,1939年(昭14)には年間一人でなんと約13回も観るのである。これは子供や老人も含めての数であるから,若者の回数は驚くべきことが推測される。ここで留意すべきは,日中戦争下で映画の観客動員数が増える現象である。その一方で演劇(営業)は,1925年に一人当たり年間約7回観ていたのが,日中戦争期には1年間で,5~6人に1人が観劇するにすぎなくなる。戦時期の社会や娯楽の単に暗黒な像への再考は,近年はじまった研究動向である。
 
ラジオ
 第350表からは,札幌におけるラジオの普及がわかる。1928年(昭3)6月5日に昭和大礼という国家的行事の全国放送を目的に,中島公園の札幌放送局は開局する。1931年1月には,札幌放送局から「江差追分」をはじめて全国に向けて放送している。32年には函館放送局,翌年には旭川放送局が開局し,ラジオ放送は全道的な広がりをみせる。32年以前においては,札幌市以外では聴取者数の統計はないが,満州事変以降,都市部の札幌市や札幌村と農村部の手稲村などとでは普及率に歴然とした差がみられる。全体にいえることは,日中戦争の開始による加速度的なラジオの普及であり,たとえば手稲村では聴取者数が,1936年(昭11)154人,37年244人,38年426人となってゆく。