札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第8巻1 統計編

Ⅴ教育・文化

14 学事・教育
作表の意図と札幌教育の特徴
 学事・教育関係は17表を作成して掲載した。各表は札幌区(市)及び町村における主に戦前期の教育状況を統計的に把握し,年次的な推移を概観し,動態変化をさぐる目的をもって各種統計書類から作成したものである。これらの基礎データによって札幌の教育史は,より立体的な理解と分析が可能となり,今後は様々な検討材料として利用されていくと思われる。
 札幌は「道都」として道内における政治,経済などの中枢機能を担ってきたが北海道帝国大学,札幌師範学校などの中・高等教育機関の存在に代表されるように教育,ひいては文化的な中枢機能も担っていたといえる。さらに,中学校が進学率の高い受験校化し,各種学校の多さも札幌ならではの特徴であった。もう一つの特徴としては,小学校などの新たな教育施設が都市の拡大,人口増加によって常に新設を必要とされているように,教育設備が都市問題,地域問題として恒常的に存在していたことである(周辺町村も同様)。以下,各表につき解説し,あわせて札幌における教育史をめぐる状況,問題などを概述することにする。
 
学齢・就学児童数
 学齢児童は年度末にて義務教育年齢を迎えて就学する,数えで6歳1カ月以上の児童をさし,就学児童はそのうち就学免除,猶予を受けず現に在籍学校へ通学している児童をいう。1900年(明33)の小学校令以降の修業年限は一般に尋常科4年,高等科4年,1907年の改正以降は6年と2年であった。
 第319,320表の学齢児童数及び就学児童数は,札幌市の推移をまとめたものである。この種の統計調査と報告は市町村から道庁へ「学事年報」によってなされていた。1892年(明25)の北海道庁訓令第31号が初めてこの条項と書式を定めている(その後,何度か改定)。第319,320表もこれをもとにした数値であろうが,第319表は『札幌区(市)統計一班』,『札幌区(市)事務報告』から作成している。児童数は1907年に尋常科が6年制となったこと,1910年に豊平,山鼻,苗穂,上白石の地区が札幌区へ編入したことにより増加している。その後も札幌市の人口増にともない漸増を続けると共に,札幌村一部の編入(1934),円山町の合併(1941)などによっても急増していた。不就学児童は病気,貧困等による免除,猶予者であるが,1935年(昭10)から43年にかけては200人台を数えている(ここには「不登校」も加えられているとみられる)。これ以前は函館・小樽市にくらべて不就学児童が少ないのが札幌市の特徴であった。この差は主に貧困等の社会的原因であったとみられる。就学歩合は1906年からすでに99パーセントに達していたが,1902年に90パーセント以上に授与される名誉旗を区内の数校は得ており(山崎長吉 札幌教育史上巻,1986),札幌は早くより就学歩合が高かったといえる。
 第320表は『北海道庁統計書』から作成したものであるが,「既ニ就学ノ始期ニ達シタル者」は第319表の学齢児童と同一のはずであるが,実際は数年分しか同じではなく多くは異なっている。そのために第320表を掲載したのであるが,共に年度内3月1日現在の数値であるはずである。どうしてこのような差異となっているのか今後調査する必要がある。「未ダ就学ノ始期ニ達セザル者」は新学期からの入学予定者となる。
 第321表は札幌区(市)以外の町村部における就学児童数の推移を各種統計,史料よりまとめたものである。これらの統計数値を通年的に記載したものは乏しく,大正後半期からややまとまって数値をつかむことができる。町村部も篠路村を除き,札幌の近郊都市として人口増加が続いていたが,そのことが就学児童数の増加にもあらわれている。札幌同様に学校施設の拡充という問題に直面しており,特に藻岩村(円山町)ではその問題が顕著であった。
 
学校統計諸表
 第322~325表は学校種類別表である。第322表は1906年(明39)から1946年(昭21)までの札幌区(市)の学校を設置者別に示したものであるが,小学校についてみてみると,1910年と1941年は市域の拡大により,豊平・山鼻(1910),円山・八垂別(藻岩)・白川(1941)の各学校が札幌区(市)に編入されたために区(市)立の学校数が増加している。1919年以降は,ほぼ2~3年ごとに1~2校が新設されている。これは,児童数の増加にともない学校設備が狭隘となったため,その解消を目的に1923年「第一次札幌市教育五カ年計画」が実施されたことによる。この計画の方針として札幌市長は,小学校設備の改善・拡張,二部教授の全廃,学級児童数の緩和,特別教室,仮教室の復旧整理等を掲げている(札幌市教育会 札幌教育第30号 1924)。学校設備に関しては,1925年度から毎年1校ずつ新校舎を建築して,1928年度までに市立小学校を15校まで増やそうという計画であった。これは,第322表を見る限りほぼ目的は達成されている。だが設備不足の問題は依然として解消されず,1928年に第2次5カ年計画,1933年に第3次5カ年計画が実施された。
 高等女学校は1899年「高等女学校令」により,その目的として「女子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為ス」ことを規程された。同令は「道及府県ニ於テハ高等女学校ヲ設置スヘシ」として設置を義務付け,1903年7月を期限とした。札幌区に高等女学校が設立されたのは,1902年(明35),北海道庁立高等女学校が始めである。スミス女学校(1887年設立)を前身とする私立北星女学校は,1901年に「高等女学校ニ類スル各種学校」と認定された。そのため,『札幌区(市)統計一班』では年度によって各種学校に区分されたり,高等女学校に区分されたりしている。しかし,1943年に「中等学校令」が制定されたことにより,中等学校(中学校,高等女学校,実業学校)の制度が統一され,北星女学校も高等女学校に組織変更している。1906年に設立した私立北海高等女学校も「高等女学校ニ類スル各種学校」であったが,1910年に高等女学枚への改組が認められた。高等女学校の生徒数は,1920年を境に数十人単位から数百人単位で増加している。
 実業学校は1899年の「実業学校令」によりその制度が確立された。工業学校,農業学校,商業学校,商船学校,水産学校,職業学校がこれに相当するが,1920年までは各種学校や徒弟学校も含まれた。そのため第322表にみられるように1920年までは私立の実業学校の数が多くなっている。
 1876年(明9)に開校した札幌農学校は,東北帝国大学農科大学(1907)から北海道帝国大学(1918)という,官立の専門学校から帝国大学へ昇格した後,北海道大学(1949)として現在に至る。同校の大学昇格の背景には,文部省の高等教育拡充政策のほか,大学関係者および札幌区民による大学昇格運動があった(市史 第3巻)。
 第326・327表は小学校別在籍児童数である。戦後は各校の数値は『札幌市の教育』や『北海道学校一覧』等の資料により,1950年以降はほぼ把握することができる。しかし,戦前は各学校別に記載されている資料はほとんど見当たらない。札幌区に限れば,1900~1946年までは『札幌区(市)統計一班』と『札幌区(市)事務報告』があるが,札幌市に合併される以前の札幌村や白石村等周辺町村については,各町村勢要覧類に頼るしかない。しかし,要覧類が一貫してそろっている町村はなく,1900年以前の札幌区同様に児童数を把握することは困難である。そこで,創立が1950年以前の小学校54校に対してアンケート調査を行ったところ,53校から回答があった。
 調査項目は,尋常科と高等科(初等科)の男女別在籍児童数である。幌南,盤渓,新琴似,屯田,札幌,札苗,手稲中央,清田,月寒,石山,藻岩の各小学校は,一部不明の時期はあるものの比較的良くデータが把握されていた。しかし,多くは火災による資料の消失等から,学校自体も児童数を把握できていないのが現状である。そのため,尋常科(男・女),高等科(男・女)別の作表は断念し,総数のみのデータを提供するにとどまった。
 第328表は各旧制中学校別の在籍生徒数・卒業者数・入学者数の推移を示したものである。札幌に初めて中学校が設立されたのは,1891年(明24)の「中学校令」改正後のことである。1895年,道庁は函館と札幌に庁立中学校を設置することを決め,これにより札幌尋常中学校(のち札幌第一中学校)が設立された。
 中学校は1899年改正の「中学校令」により,ほぼ戦前の形が形成されたとされる。「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以テ目的トス」とされ,高等女学校や実業学校を含めた中等学校中のエリートコースと認識された。中学校の修業年限は5年であったが,1908年に義務教育年限が延長され,尋常小学校第6学年と中学校第1学年が制度上接続することとなった。そのため,1900年以降増加していた札幌区の中学校への進学希望者はさらに増加した(市史 第3巻)。しかし,実際に入学できたのは志願者数全体の30パーセントにも満たなかった。これは,当時北海道に中学校がわずか5校しかなかったという事情から,札幌・空知支庁を中心に全道から志願者が殺到したこと,さらに他府県からの入学者が10パーセントを占めていたために,札幌区の小学生の入学がかなり困難であったことを示している。こうした入学難は「当区(札幌区)に於ける中等教育の欠陥」(北タイ 1911.4.3)と認識されたため,1911年,事態を解消するべく中学校の増設を目的に「中等学校設立期成会」が設立された。以後,大正期に庁立札幌第二中学校(1912),私立夜間中学校(1923),昭和に入ってからは私立昭和中学校(1939),札幌市立中学校(1941)と増設されていった。
 
実業補習学校・青年訓練所・青年学校
 第330表は,在籍者数を調査月の異なる3つの統計表で作成したものである。在籍者数の統計類は,『文部省年報』および研究の現状としても,1年間の動態を示す統計をこれまで意識的には作成してきておらず,入・退学の大きな変動が予想される教育機関では1年間の動態に注目する必要があろう。また使用する統計の欠落を他の月に調査した統計類で埋めることでは実態からはなれたものとなる。このことは後述の青年訓練所,青年学校にも当てはまる。
 札幌区・市内の実業補習学校は工業と商業のみに限定され,夜間の設置であった。また学科別に受講できる制度であり授業料も徴収しなかった。第1・2工業補習学校開設の1908年(明41)8月末の年齢構成では,最高年齢34歳,最低年齢12歳1カ月,平均が第1工業補習学校が20歳8カ月,第2工業補習学校が18歳3カ月となっている。職業構成では,第1工業補習学校では調査した66人中職工がきわめて多く32人,続いて官庁給仕7人,大工5人と続く。第2工業補習学校では82人中,大工34人,職工,機械及び印刷業,雑業がそれぞれ9人と多い。これは設置している科の内容が反映したものである。学力格差がかなりあり,一斉の授業が困難で,学級編制において科目毎に柔軟な対応があった(札幌区事務報告 自明治四十一年報十月至同四十二年九月)。
 第331表は,旧札幌市内の各青年訓練所の在籍者数・修了者数の推移を示す表である。ここでは修了者数が際立って少ないことを指摘しておく。これは都市部の青年訓練所に際立つ特徴である。また1926年度より修了者が出ている。これは,「青年訓練所規定」6・7・8条による訓練項目の免除と初年度の臨時処置「青年訓練所訓練時数に関する件」(普通学務局通牒発普179号)による修了者と考えられる(この点については文部省普通学務局編『青年訓練義解』財団法人社会教育協会 1926年参照)。
 一般に青年訓練所は,急速な設置と同時に,入所および出席状況は奮わないと日本教育史研究においては理解されている(日本近代教育百年史5巻 国立教育研究所,1974年)。たとえば1932年度下半期の全国の平均入所歩合は71.71パーセント,平均出席歩合は69.40パーセントである(文部省実業教育局編 実業教育50年史続編 1936年)。この数字を基準に考えるならば,第332表にみられる手稲村の入所率はきわめて高い。豊平町では1926年と1930年の期間における入所率の顕著な上昇がみられる。
 1928年度の豊平町議会において「惜シムラクハ各生業関係等ヨリ入所該当者276名中入所者204名ニスギザルハ遺憾トスルトコロナリ」と町当局も答弁し,入所率を高めることを緊急の課題であると述べており(豊平町史 1959年),この年の入所率は73.91パーセントとなる。豊平町では各訓練所ごとに後援会を組織し,入所・出席を督励している。
 第333表は,旧札幌市内青年学校在籍者数・修了者数の推移を示す表である。
 毎年6月調べの『札幌市学事一覧表』と12月調べの『札幌区(市)事務報告』を比較すると,年度内の在籍数の動態がわかる。たとえば1935年公立10校の6月現在在籍数は1896人,12月の在籍数は1541人と約19パーセント減少している。1936年,37年も同じように2割弱減少している。唯一,年度内で在籍者数が毎年増加する札幌市立実業女学校を除くと,この数字はさらに明確になる。1935,36,37年の数字で約23パーセント前後の減少となる。
 これらの数字から男女により,就学状況が異なることが推測される。男女「共学」(男子部と女子部に別れる)の青年学校の減少率を推し進めているのが男子の退学率の高さ,女子の場合は逆に,年度途中から就学してくる者の方が退学者数を上回っているのではないか。そのことを裏付ける数字が私立青年学校の在籍動態にもいえる。女子が多いと考えられる札幌丸井青年学校は1935年には27.9パーセント増,36年には27.6パーセント増(ただし37年は2パーセント減)。男子が多いと考えられる苗穂鉄道工場青年学校は毎年減少している。
 これらの数字は都市部の特徴であり,農村部では異なる動態が予想されるものの,1939年4月の青年学校令改正による男子のみの義務制の実施基盤の脆弱性の一端が読み取れる。
 また札幌市内においては,私立の青年学校が1939年から急速に増える。しかしながら,その内実を示す資料類はひとまず見当たらない。また1944年から札幌市内では統合が推進され,45年には公立青年学校1校に統合される(1市町村1校の建前,周辺町村の統廃合は1943年から本格化)。
 第334表は,旧札幌市を除く周辺町村の青年学校在籍者数である。1937年以降の数字が町村によりまとまってわからないため,年を限定した。創設年・月は青年学校の開設あるいは改組の年・月を明記した。また1945年4月の時点で手稲町に三菱手稲鉱山青年学校,豊平町に日本鉱業豊羽鉱山青年学校があった。