札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第8巻1 統計編

Ⅰ土地・気象・人口

3 人口
 札幌市(現市域)の人口調査方法は全国と同様,1920年(大9)10月1日の第1回国勢調査の実施を画期とし,国勢調査以前と以降とに分けられる。国勢調査(センサス)実施以前の国,道府県,市町村が公称する現住人口は,公簿(戸籍簿及び寄留簿)上の算出により求めた数値であったため現在の現住人口とは性格を異にしていた。当時の現住人口の算出方法は,1872年(明5)に実施された「壬申戸籍」調で得た戸籍簿の「本籍人口」をベースに,毎年前年の出生・死亡・就廃籍数を加減して当該年の本籍人口を求め,さらに当該年の入出寄留届出(住民登録制の前身)数を加減していたのである。このような戸籍簿に依拠する現住人口は,実地調査を伴わないために脱漏や重複が多く,次第に実態と乖離した誤差が累積されることにもなった。誤差を生じる主な原因は「戸籍ノ法」に定めた寄留制度の未発達性に起因する制度上の不備と,届出が法令どおりに励行されない現状とにあった。したがってここではまず,現住人口数の増減に大きく関与した寄留制度の変遷と届出手続き方法について解説しておくことにする。
 
寄留制度
 寄留とは,1871年(明4)4月公布の「戸籍ノ法」により90日以上本籍地を離れ,別の住所に居住することをいう。71年当初,寄留は旅行者と同様にやがて本籍地に復帰することが前提とされていたため,開拓使管内達第29号8則(71年8月日付無し)に基づく町触においても「寄留」に「カリスマイ」とルビを付し,寄留者は鑑札を添えて戸長へ届出るよう規定しただけで,詳細な規則は記載されていなかった(鑑札は71年7月22日太政官布告第365号で廃止されたが,開拓使管内では以後も実施されていたのか詳細は不明である。開拓使布令録,大付耕太郎資料 文資)。
 人口移動が激しくなり,入出寄留数の急激な増加に対応するために寄留制度が整備されるのは1886年(明19)以降である。一つは寄留簿の作成であり,他の一つは戸主以外による届出も許可となり,区市町村の戸長相互間で届出送籍が可能になったことである。すなわち①他府県・他郡区の入寄留はそれぞれの入寄留簿を作成し,他府県へ出寄留の場合は出寄留簿に記入する。これらの寄留地を去る届出を受理すると除寄留簿に移す。②寄留地を去り本籍地へ復帰又はさらに他の地へ寄留する場合その届出を本籍戸長が受領したときは,該戸長が前寄留地の戸長へ報告する(86年9月28日内務省令第19号に基づく88年1月13日北海道庁訓令号外)。③同郡内他町村へ寄留したときは10日以内に本人が,借地借家寄留者は家主や地主が戸長に届け出,かつ同時に本籍地の戸長に届書を発送する。寄留地を去るときも回様の届けをする。本籍地に復帰した際は本人か戸主が10日以内に届出る(前掲内務省令19号に基づく90年10月3日北海道令第64号)④他町村入出寄留届けは他町村用の入・出寄留簿を作成し入寄留を登記し,入寄留者が去るとき人名に朱線を引き除寄留簿に移し,出寄留者が復帰届けをしたときは出寄留簿の人名に朱線を引くことが規定された。さらに科料(20銭以上1円25銭以下)制を敷き,届出責任の明瞭化と行政事務手続きを整備することで届出漏れや記入漏れ防止が図られた(総理府統計局百年史史資料集成 第二巻)。背景には徴兵忌避防止や戸数割税の徴収数,学齢児数などの把握を寄留制度に求めようとする各方面からの要請があったためである。
 また一方で,1871年(明4)以来,戸籍は居住地の戸を基準にして編製したため(後述)戸主以外の家族の寄留は90日と規定されたが,戸主を含む全戸が半年以上本籍地を離れた場合は寄留とせずに,元の戸長が寄留地へ転籍手続きをしていた(74年2月27日開拓史札幌本庁から各出張所達「寄留表調整方」)。全戸寄留が許可されるのも1886年(明19)の寄留手続き方法の整備以降である。さらに98年(明31)の戸語法改正により戸籍編製の目的が出生・縁組など身分登記に重点を置いたことから,戸籍が現実生活の世帯と一致しない「家」として観念化していくに従って,寄留制度は本籍と住所の一致しない者を把握するための重要な任務を持つことになった。そこで寄留制度を整備するため1914年(大3)「寄留法」を制定し翌5年寄留簿の整埋が行われた。この整理によって札幌区の寄留数は6割減少し,15年の現住人口は前年14年に比較して1万6000人も減少する事態となった(後述)。14年の改正により戸籍・寄留届業務とも監督官庁が内務省から司法省に移管し,戸籍吏(多くは区長村長)と戸籍役場は廃止されたが,市役所町村役場内での戸籍・寄留事務は継続された。
 出寄留の項目内容は時代の変遷と共に追加され,『北海道庁統計書』上に記載される項目についてみると,陸海軍在営艦兵卒(現役兵のみ),囚人及び懲治人(1886~1913),さらに植民地統治の開始に伴い在台湾(1898)・樺太(1905)・朝鮮(1910)・関東州(1918)へと拡大していった。しかし,寄留制度は戦時中に寄留簿登記が不十分となりその意義を喪失していたことから,第二次世界大戦後は51年,住民登録法の公布(施行52年7月)に伴い移行し,67年には住民基本台帳制として実質的継続した。戦前期,市町村ではこのような寄留状況を「人口出人表」に作成しており,本編の第53,54表「入寄留人口」「出寄留人口」(1886~1924)は,この「人口出入表」に依拠して作成したものである。
 
人口調査
 ここでは第13~37表各市町村別戸数・人口(1870~1997,明3~平9)の作成に使用した人口調査の種類と,札幌市の累年人口の節目における特徴的な数値について説明する。
 開拓使時代(1869~1882年)における札幌市(現市域)の人口を知る資料として,開拓使の事業実績を編纂した『開拓使事業報占 第二編』(大蔵省 1885)がある。「移民顛末」の項に70~81年分が掲載されており,同表でも一部本籍数を使用したが,目的が各年における新旧移民の送籍調査数のため人口統計としては十分とはいえない。全戸対象の人口統計としては,明治新政府が全国規模で初めて実施した人別調の数値がある。
 
イ)人別調
 1870年(明3)5月,民部省は府県諸藩に宛て「在来ノ人別帳ヲ以戸数人員其外総計不洩様取調」差し出すよう達した(民部省令第384号「諸藩石高戸口ヲ録上セシム」)。これを受けて開拓使開墾掛は71年3月,札幌市中を町代見習・高橋亀次郎らに,篠路,琴似,平岸,丘珠,月寒の諸村を村役人らに調査させ,永住者を対象に男女別,年齢3階層別人員と総計について報告させた。書式は府県藩に一任されていたが,住所はまだ創設されておらず家屋番号を付して整理し,1870年9月苗字使用が許可されたことから戸主・家族の苗字・名,続柄が記載された。ただし札幌市中の調査報告『辛未歳市中人別申出綴』(道文)は,人口数に疑問があるため本編には収載しなかった。『開拓使事業報告 第一編』によると,1871年4月北海道内西部各郡に,永住か出稼かを区別し69年以来の「戸口」の増減を調査させたとあるので,この人別調により集計したことがわかる。
 廃藩置県以前の数値のため全国集計はされておらず,戸籍編製までの暫定的役割であったため,1871年(明4)10月3日,大蔵省令第70号の「先般戸籍法改正ニ付従前ノ宗門人別帳被廃候条自今不及差出事」により廃止された。
 
ロ)壬申戸籍
 全国統一の人口調査は,1871年(明4)4月4日の「戸籍ノ法」(大政官布告第170号)公布に基づいて翌72年に編製された壬申戸籍と,それを総計した「全国府県戸籍職分寄留総計調」である。壬申戸籍の目的は地方施政でも「戸口の多寡を知るは人民繁育の基」(「府県施政順序」新北海道史 第3巻)と規定されており,この目的のほかにも脱籍浮浪者の取締や人民の居住,交通制限の監視も含んだ中央政府による地方末端行政機構を通じての人民掌握であった。1872年8月には学制が制定され,同年11月には徴兵令が布告された。兵籍は戸籍を基本に編製されることから戸籍制度の確立は明治新政府にとって近代国家建設のためにも「政務の急」であった。
 さて,戸籍は1872年(明5・壬申)1月29日(太陰暦,太陽暦では3月8日にあたる)を現在として2月1日から100日間で調査し,居住地の町村にて編製することが原則のため,開拓使は71年(明4)7月17日第25号により管内に次のように達して,戸籍の重複を回避するよう注意を促した。「臣民一般其住所ヲ以テ籍ヲ定メ候事ニ付是迄彼町ニ住居此町ニ入籍ノ者改テ其住居ノ籍ニ被入候事」(開拓使布令録)。ところが,公布わずか3か月後に廃藩置県が実施されたため,道内は69年以降の開拓使,省,藩などによる分領支配体制が崩れて開拓使直轄に移行した。開拓使札幌本府建設が着手され,「移民扶助仮規則」(69年)の公布によって移民政策が緒についたばかりの時である。一時的滞在者やその家族寄留者で数千人の工商農業者や官員が札幌市中に流入していた。急激な寄留人口の増加に態勢が整わない状況での戸籍調査は困難を極めた。そのため1871年(明4)9月,開拓使は「戸籍調査期限府県同一ニ行レ難キ旨」を開申し,12月に各郡に戸籍調査委員を派遣,明けて72年4月各郡に同委員をおいて戸籍事務取扱とし,戸長戸長を兼務させて給料を官費とした。
 札幌市中では岩村通俊開拓判官が72年1月25日「戸籍取調等ニ而特御用多之折柄」町代見習2名を任命し,同年5月市在役人を廃止しさらに戸長戸長を置いた。
 戸籍区については,4~5町,あるいは7,8村を組み合わせ1小区とし道内を合わせて90の大区小区に分け,札幌市中は1~5小区の合計20通町を括って一大区「開拓使直轄石狩国札幌郡札幌町」とした。隣接する12カ村(円山,琴似,手稲,発寒,平岸,白石,月寒,対雁,札幌,苗穂,丘珠,篠路)も区域内としているので,第一大区の区域範囲は現在江別市域となっている対雁を除くと現市域と一致するものであった。
 戸長は「検戸」による調査と記載を終えた戸籍簿を編成すると,それを基本とする「庁下第一大区戸籍職分寄留総計」一覧を作成し,戸籍簿2通を清書するとともに,1872年10月実地調査として開墾掛に提出した。その結果,札幌市中は戸数567戸,本籍人口1256人(男675・女581),寄留人口(含12カ村)4717人,現市域(ただし対雁村を含む)では戸数1174戸,人員3501人(男1892・女1609)であった。開拓使は道内を集計し72年1月29日現在調として太政官に提出した。太政官では全国から提出されたデータを集計し,全国3311万796人の本籍人口が明らかになり,ここに初めて人口統計の基本資料が作成された(福島正夫 明治以後の戸籍制度の発達 家事裁判一家族問題と家族法Ⅶ)。かくして,1872年10月札幌市中の本籍人口が明らかになると,戸長は調査期間中の戸籍移動を差し止めていた出生・死亡・就除籍など動態数を加減して,73年1月1日調の本籍戸数・人口を算出したと推察できる。以後74年~86年1月1日調の本籍人口は同様に前年12月31日現在の1年間の動態数を加減算出し,現住人口はこの本籍人口に前年12月31日現在の入出寄留数を加減して算出することになったのである。札幌市中における寄留登録調査の開始は74年(明7)2月以降のことである。
 
ハ)「区勢調査」と「虚数人口」
 明治初期から累年静態人口統計は,前述のように寄留制度上の不備や手続きの問題など統計作成過程に諸問題を伴いながら,追年作成されていった。したがって札幌は東京などの大都市同様に人口移動が激しく,入流出を反復しながらも絶えず移入人口が流出人口を上回る特性上,入寄留数に重複が出寄留数に脱漏が多くみられたため,実態の人口から乖離した不在(虚数)人口も次第に増加していった。たとえば,1909年(明42)3月,札幌区が独自に実地調査をした「区勢調査」では多くの「虚数人口」の存在が明らかになった。
 「区勢調査」の本来目的は民勢調査であったが,対象を札幌区内全所帯としたセンサスであり,調査顧問高岡熊雄(当時東北帝国大学農科大学教授・統計学)が企画した調査事項の種類と内容の精密度は,後の第1回国勢調査を上回る調査統計であった。調査日は融雪期を迎える前の人口移動が比較的少ない3月1日午前零時現在に選定した。調査結果によると,区内現住人口は同年3月1日現在,5万6349人(男29155,女27194)であり,2カ月前の1908年12月31日現在の札幌区公称人口7万75人に比較すると。「区勢調査」が1万3726人も下回っていた(第13表参照)。すなわち「区勢調査」は国勢調査と同様の,所帯別小票を用いた自計式(文字の書けない人の場合は調査員による聞き取り)による全人口調査方式を採用し,外国人を含む区内全域の現住者及び一時不在者の調査であることから,2カ月前の公称人口よりいくらか増加しているのが自然であった。しかしながら,入寄留数のうち同一人物による重複や不在登録者数が出寄留数を大幅に超過したため,加減で算出しか公称人口の中に「1万3726人」もの「虚数人口」の存在を証明するところとなった。
 実態に最も近いこの「区勢調査」人口に対し,当時札幌区民からは人口が減少したと不評を買ったという(日本統計発達史)。不評の理由の一つは,公称現住人口(現役軍人を除く)を基準にして区会議員定数を算定していたことにある。1899年(明32)10月の北海道区制施行以降,10年の年月しか経っておらず,自治制基盤が確立されつつある微妙な時期だった。同区制によると議員定数は人口5万人未満が24人以下,5万人以上が30人以下(1902年5月29日勅令第158号)と規程されており,公称人口7万人に比較すると,ボーダーラインに近い「区勢調査」5万6000人は区民にとって歓迎される数字ではなかったといえる。「区勢調査」の結果は札幌区の人口統計の修正に反映されることはなかったが,その後の国勢調査実施運動に影響を与え,実施の誘因ともなった。
 続いて1915年(大正4)「寄留法」に基づく寄留簿の整理作業を行ったところ,入寄留人口の6割は「虚数人口」,つまり不在登録者であることが明らかになった。このため15年の現住人口(8万3276人)は,前年14年(9万9318人)に比較して1万6000人も減少した。この人口減少について高岡熊雄は「入出寄留ハ大ニ整理セラルヽコトヽナリシカバ現住人口数モ前年ニ比シ其面目ヲ一新セリ」と自身が著した調査報告書『札幌区将来ノ人口』(札幌区役所 1922)の中でむしろ賞賛し,さらに,15年(大4)から20年第1回国勢調査結果までの札幌区公称現住人口は,この寄留簿整理の効果によりかなり精度の高い数値だと述べている。
 
ニ)国勢調査
 1915年(大4)の札幌区現住人口について高岡が信頼度が高いと評価した理由は,1920年(大9)10月1日,全国一斉に行われた第1回国勢調査の札幌区の結果と比較してみると明らかである。国勢調査の結果,札幌区は10万2580人で,前年19年末の公称現住人口(9万8648人)に比較して3932人上回り,国勢調査2カ月後の12月31日現在札幌区公称人口(10万7601人)でも5021人が増加している。第1回国勢調査では,全国総数とほとんどの府県において,本来なら当然上回るべき国勢調査結果が現実には前年1919年の本籍人口を下回ったことで,より一層,戸籍簿に依拠する人口の虚数が明らかにされ,内閣統計局は後に本格的な修正に乗り出し,1930年には『明治五年以降我国の人口』を公表し,明治・大正期の公式推計人口とした。この第1回国勢調査結果が前年本籍人口を上回っていたのは北海道の18万人(上回り数)を始めとするわずか4県のみであった(第一回国勢調査記録 北海道庁)。このように国勢調査と前年1919年12月公称人口の誤差が僅少で,なおかつ国勢調査数が増加しているということは,札幌区において①1915年の寄留簿の整理によって虚数が解消されたうえ,その後も効果が持続されていること,②人口がその後も増加し続けている実態をも証明するものであった。
 さて,国勢調査の結果とその影響を受けて,1926年(昭1)以降,人口統計は実査に切り替えられることになった。1925年の第2回国勢調査が終了すると,北海道庁は政府の指示に基づき次の「人口統計取扱手続」(1926年12月5日訓令第81号)を通達した。①国勢調査を施行しない年は毎年世帯及び常住人口を調査し報告する,②調査内容は国勢調査に準じた普通世帯の職業別人口(大分類),常住人口は普通・準世帯の年齢別,性別について行う,③実施日は10月1日午前零時現在調とし,調査方法は市町村に一任することなどである。これに対し札幌市では,町内会(40年以降は公区)を通じて把握した現住戸数に,「最近ニ於ケル国勢調査ノ一世帯平均人口ヲ前記数ニ乗シテ推計シタル人口」(『第三十八回北海道庁統計書 第一巻』)として算出し報告した。因みに,第13表札幌(区)市戸数・人口に38年までの入出寄留人口を掲載したが,26年を期して以降,本籍数に入出寄留数を加減しても現住人口と合致しない原因はこの実査に依拠している。このように,戸籍簿と寄留簿との加減で算出していた札幌市の公称人口は26年の実査以降,より実態に近い数となり,また33年以降,調査日は10月1日に切り替わる(北海道外では収穫期となるため農民が自村に帰り人口移動がおさまる時期とされる)。
 第二次世界大戦中の40年に第5回国勢調査が実施された。調査項目には明らかに軍事目的が要求され「指定技能」や「兵役関係」の事項が加わった。しかも,軍事機密であったため当時公表された内容はごく一部分で,原表を元に編成した調査報告書が完結したのは1962年(昭37)のことである。第6回目にあたる45年の国勢調査は45年11月1日,人口調査として実施された。すなわち45年10月15日,翌46年に実施が予定された衆議院議員選挙のための議員確定数や選挙区の改正,および婦人参政権等付与による新選挙人名簿へ転用の基礎資料とするため,緊急に資源調査法(1929年12月施行)による人口調査が閣議決定されたことによる(閣甲第478号昭和二十年人口調査要綱改訂ニ関スル件 公文類聚第六十九編 巻五 1945)。この調査は陸海軍の部隊および艦船にいる者を除く日本国内(内地)に在住する総ての日本人,朝鮮人,台湾人について各歳別・性別,人員を明らかにした戦後初の全国規模の調査であることから,敗戦前後の札幌および北海道の状況を人口構造を通して知る上できわめて示唆に富む資料といえる(第50表,原表は総務庁統計局図書館所蔵のマイクロフィルム)。
 
その他の人口調査
 以上の外に継続的人口調査として,警察署調べと軍事統計がある。警察統計は,1915年の寄留簿整理結果,および1920年第1回国勢調査の各戸数・人口に比較対照すると近似値できわめて差違が小さい。本編には使用しなかったが,『北海道庁統計書』に13年(大2)~41年(昭16)にかけて現住人口が掲載されており,数値は市町村の公称人口に比較して各年とも低い値となっている。北海道では1875年(明8)以降「開拓使行政警察規則」により任意で「戸口調査」が実施されていたが,法的に強制力を持ったのは内務省令第32号(1899年7月)による「宿泊届其他ノ件」以降である。1950年(昭25)1月20日の国家地方警察本部次長通達「外勤警察運営に関する概括的方針」により同年4月末日限りで廃止された(北海道警察史一 明治・大正編)。
 また軍事統計『共武政表』(創刊1875年,83年『徴発物件一覧』に改題)のデータを第13~37表各市町村別戸数・人口に使用した。1878,79,80年12月31日現在調は,北海道内においては「人口一百以上輻輳地」として掲載されているので道内のほとんどの町村が該当する。陸軍省は,戸長役場の公称現住人口を開拓使や,後には北海道庁を介し提出させていた。人口・馬匹・船舶など軍事行動のための基礎資料である(明治徴発物件集成別冊 解題 一橋大学経済研究所附属日本経済統計情報センター)。ただし数値は戸長役場単位にまとめられているので注意が必要である。
 
人口動態統計
 人口動態統計は,出生・死亡・婚姻・離婚及び死産の発生件数を年間で記録し,時系列で人口変動を捉えようとするものである。変動の要因である出生・死亡の登録と統計は1871年(明4)の「戸籍ノ法」に基づき,翌72年に開始された。出生・死亡は戸主から戸長に届けられ,戸長は月末にまとめて開拓使に報告し,年間件数を一覧の「戸籍表」に作成し太政官へ提出していた。婚姻・離婚も届出はされていたが,婚姻については『開拓使事業報告 第一編』によると,「五年九月本籍者ト寄留者ノ婚姻ハ寄留者本貫ノ府県懸隔ノ地ハ送籍遽ニ辨スヘカラス因テ当分本貫確證アル者ニ限リ結婚入籍ヲ許ス」とある。これは1872年,まさに壬申戸籍を編製中のことであり,送籍の事務手続き上の混乱を避けようとした様子がうかがえる。明治初期における北海道で,本貫(本籍)が遠隔地にある寄留者との婚姻は,届出ても即座には許可されなかった例示だが,全国的にも1922年(大11)の「人口動態調査令」公布による整備が実施されるまで,脱漏や無籍は数多くみられた。婚姻と離婚の調査開始は1880年(明13)以降で,86年(明19)からは死産も調査された。札幌区(市中)の出生・死亡・婚姻・離婚統計数が継続して掲載されるのは1886年の『第一回北海道庁統計書』以降であるが,それ以前において,最初に確認できるのは1883年『明治十六年札幌県統計書』により,続く84,85年は札幌県が内務省戸籍局に提出した『郡区分戸口表』(札幌県)の原表(総務庁統計局図書館所蔵)により確認できる。
 人口動態統計の基本的スタイルが確立したのは1899年(明32)の『日本帝国人口動態統計』の発刊による。この時点で内務省による地方集計が内閣統計局に移管し,初めて小票の使用と中央集計とによる改善策が図られた。続いて第1回国勢調査後の1922年(大11)に「人口動態調査令」が公布されて,動態統計も戸籍の付随業務から本格的な統計調査となった(総理府統計局百年史資料集成 第二巻)。その後,人口動態統計が画期的に変わるのが占領期である。GHQ/SCAP(連合国最高司令官総司令部)の指導により,調査目的の重点が公衆衛生対策に移行したことで1947年管轄が厚生省に移管され,札幌市も保健所経由の集計となった。
 
札幌市の人口動向
 明治期から昭和戦前期における札幌市の人口動態統計は,1906年(明39)年以降『日本帝国人口動態統計』の「人口5万人以上ノ都市」の部に掲載された。第40,41表の人口動態統計総覧表はこの『日本帝国人口動態統計』(各年)の復刻版に依拠して作成した。しかし,完全な統計はもとより存在するはずもなく,同統計も比率の算出に使用している推計人口(分母数)についていえば,内閣統計局が札幌市の推計人口を過大に算出しかため,1917年(大6)をピークとして翌18年から逆転し減少している。そこで,本編では実態により近い統計はどのようなものかを検討する材料として,明治期から昭和戦前期については,前掲出典統計書のほか『札幌区(市)統計一班』と『北海道庁統計書』の2種類を出典とした,本籍地別および現住地別の各人口動態総覧表の作成を試みた。ただし,グラフ1「出生率の年次推移(1906-1995)」および2「札幌市人口自然増率の変遷(1909-1995)」で使用した1915年(大4)~1940年(昭15)の推計人口は,正確度がより高い寄留簿整理後の札幌区(市)公称人口で修正した。出生・死亡・婚姻・離婚・死産の各比率は各統計表人口動態総覧表を参照されたい。
 なお,明治期から昭和戦前期までの人口動態統計において,北海道内は人口の移人が激しいことから本籍地別動態が地域の動向を反映しているとは限らず,寄留数を含めた現住地別動態が,より地域における現実の変動を表している。また,同時期には出生・婚姻に脱漏が多く,内閣統計局ではこれら動態の各年脱漏件数の遡及調査統計を都道府県別に集計し,前掲『日本帝国人口動態統計』(各年)に掲載していることをつけ加えおくことにする。
 

グラフ1 出生率の年次推移(1906-1995)   (人口千対)

 

グラフ2 札幌市人口自然増率の変遷(1906-1995)   (人口千対)

 
 さて,札幌市における1906年(明39)から1995年(平7)の人口動向を,自然増(出生数一死亡数)の角度から触れてみることにする(グラフ1,2参照)。まず個別の例を見ると,出生率(人口千人当りの出生数)では1906(明39)・1966(昭41)年の落ち込みの原因は,丙午による出産控えの反映である。死亡率(人口千人当りの死亡数)が高い1918(大7)・19年(大8)は,全国的に流行したインフルエンザによるもので,全国と1年のズレがあったようだ。次に全体的な動向を概観するとおおよそ次の4つの時期に分けられる。①明治期(1907)から昭和初期(1931)において,出生率は人口千人当り40から30の高率で推移しているが半面乳幼児死亡が多いため死亡率も高く,多産多死社会である。②日中戦争開始(1937)から敗戦時(1945)は「産めよ殖やせよ」の国策により結婚奨励が図られたせいか,札幌の婚姻率(人口千人当たり婚姻数)も上昇した。しかしながら出生率は全国と同じくむしろ昭和初期を下回る低下傾向である。死亡数は戦争の影響で増加し,43年から45年の3年間で1万2000人となった。したがって死亡率は敗戦をはさんで一時的に上昇するが,戦後の48年以降は食糧等の配給事情が落ちつきをみせ,また衛生環境の改善や医療技術の発達向上を背景にして急激に低下していく。戦前戦後を通じて札幌市の出生率が最高を示すのは1946年から50年の第1次戦後ベビーブーム(団塊の世代)の時期であり,この時期は多産中死社会である。③しかし50年を境に51年以降の出生率は大きく低下し始め,51年から56年は戦後における第1次出生率低下期を迎えた。だが,北海道・全国に比較すると2,3ポイント高くなっている。その後,団塊の世代が結婚・出産期を迎えた67年から76年に第2次ベビーブームを生じ,74年には史上最高の2万4038人が出生した。①出生率だけをみると,高度成長期終焉以後は75年を境に20を切り,以降低下を続けて93年には一桁台の9.4となり婚姻率もまた低下し現在に続いている。この時期は戦後における第2次出生率低下期となり,少産少死社会に移行した事実を示している。札幌市の特徴は,出生率が低下傾向にあるにもかかわらず総数に含まれる婚姻・出産期にあたる若壮年人口が多いため76年から84年までの期間,出生数2万2000人前後で推移している。これらのことから自然増加数の最多期間は,1万人を超えた1963年(昭38)から74年をピークにして1万人を割る直前,1988年(昭63)年までの25年間といえる。
 一方,上述した自然増の伸びを一定化した最大の要因は,次の①・②に起因する戦後期における社会増(移人数-流出数)の長期的継続の結果といえる。すなわち①1950年以降67年までにおける近隣6町村の合併である。列挙すると白石村(50年7月,1万9555人-前年10月1日調,以下同じ),篠路・琴似・札幌村(55年3月,計3万8427人),豊平町(61年5月,7万7312人),手稲町(67年3月,3万866人)である。次に②1968年(手稲町合併を含まず)以降における道内外からの札幌への移入である。これら自然・社会増の両要因を含んだ対前年比人口増加状況をグラフ3「人口増加数と増加率 1886年(明19)~1997年(平9)」に表した。グラフ中,戦後期についてみると,1950年以降の突出した部分は町村合併の反映である。68年以降は幾つかの山をなしながらおよそ30年の長期間,各年4万から2万人前後で増加し続けていることを示している(1915年のマイナス16.2パーセントは寄留簿整理による1万6000人の減少を示す人為的変動である)。また,表1「人口の推移(1870~1998)」により増加の規模について補足すると,1960年代後半から次第に増加規模が拡大し,60年の人口52万人が,66年には83万人へとわずか6年間で31万人が急増した。この中に含まれる豊平町の合併(7万7000人)を差し引いても約23万人の増加となっている。これは63年の増加数5万2000人を第1のピークとする周辺農村部から都市部への労働力の移入による都市集中化傾向に加え,道内の炭鉱の閉山を原因とする札幌市への流入のためである。続いて10年後の73年に第2のピークを迎え,5万3000人が増加したが,その要因も社会増は炭鉱閉山に関連した道内産炭地からの転入が影響しており,道内の経済情勢の変動が直截反映した結果といえる。また,98年7月1日現在(住民基本台帳調)札幌市の人口は180万664人となった。すなわち高度経済成長期に入った63年以降,98年までの35年間に約111万人が増加し,全道の人口約573万人(98年9月末住民基本台帳調)の約31パーセントが札幌市集中していることを示す。この間の増加を表2「皇道に占める札幌市の人口」比率(A)でみると,72年に全道の20パーセントをこえ,92年にほぼ30パーセントを占めている。63年を100とした場合の北海道及び札幌市の増加指数を比較すると(B,C),北海道の人口は35年間で112(約60万人)の増加に対し,札幌市は263(約111万人)と実に2.6倍もの急増である。このことは,道内各地の過疎化が進行する中での札幌市への人口一極集中化が一段と進んだことの現れといえるであろう。
 

グラフ3 人口増加と増加率(1886-1995)

 

表1 人口の推移(1870-1998)

 

表2 全道人口に占める札幌市の人口

住民基本台帳(各年9月30日)による。