札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第7巻 史料編2

四 産業

一 農業
 北海道開拓は、自然物採取・出稼に任された北海道に、近代的産業を基礎とした近代社会を日本人の手によって築こうとするにあり、札幌はその基地として選ばれたのである。従ってあらゆる試みが札幌を中心として行われた。
 方針としては、風土の違いから、また先進国が同緯度の地にあったことから、主として欧米各国の牧畜を加えた畑作を奨励しようとしたが、最初は馴れと需要の関係から、従来我が国に行われた農業に依らざるを得なかった。ここでは従来ふれられなかった、その面に光を当てて史料を選んだ。
 (一) 畑作物(主として麻類)
 慶応三年七月、幕府よりロシア産畑作物の試作を依頼され、札幌で試みられたことが、大友亀太郎文書にみられる。さらに開拓使の奨励策について、布令録、布令類聚、事業報告より収集した。
 (二) 養蚕
 養蚕の奨励については、まず志望者へ蚕種の下付が始まり、養蚕所を設けて授業を行い、生繭の買上、条例の制定にまで及んだ。布令録、日誌、太政類典より取り上げた。
 (三) 稲作
 稲作については、開拓使記録局編集課が調査した「開拓使本庁管下各郡村水田段別収穫調」があり、それより札幌地域内を抜粋したもので、最も時代を溯った史料と思われる。
 稲作の将来について見通しをうるため、官側の試作が進められていた。「稲作経験略記 明治一七年四月」は農商務省北海道事業管理局札幌農業事務所札幌育種場で、明治九年(一八七六)より十六年まで八年間続けた成績を発表したものである。この報告を機会に、北海道で米作が普及し始めた歴史的な報告である。
 (四) 招募清国農民
 北海道開拓のために開拓使が多くの外国人を招いたが、明治八年、十名の清国の農民を招き、丘珠に入地せしめて農業に従事させた。不幸にして成績が挙がらず失敗し、見るべきものがすくなかったが、その清国人がどのような理由で来日したのか、これまで不明の点が多かった。この事情が開拓使簿書(開拓使公文録・東京 道文五八〇四)等で理解が深まり、農耕、生活、帰国、帰化等の実態も詳らかにすることができた。
 
 二 林業
 (一) 山林取締例則
 明治十年、山林取締例則として山林監護条例が施行され、官林の伐木は管轄庁の許可をえなければ実施されえず、厳しい規制を受けていた。
 (二) 山林願取裁録
 林木払下規則によって、人民が家の建築、造船、薪炭等のために林木払下げを願い出るものへ、調査のうえ許可された。史料は、明治十三年の月寒村、平岸村、上・下手稲村等の実態を示している。
 
 三 水産業(偕楽園における人工孚化試験)
 今日、養殖漁業として重視されている孚化養殖事業は、早くも米国技師の手により試験的に札幌偕楽園で明治十年に行われようとしたが、石狩から運搬したサケ卵を凍らせて失敗した。しかしこの結果が、あとで取り上げる黒田清隆あての手紙の助言で生かされている。
 孚化に使用する親魚の捕獲については、資源保護上の規則が厳しく、担当した製煉課と警察課および札幌警察署との間で、文書上の処理が多くみられる。
 「養魚の景況報告の件」を執筆したのは、当初から孚化試験を担当した川口祝三である。この報告は、三年にわたる孚化試験の結果として人口孚化のむずかしさを述べ、十四年試験中止の端緒となった。しかし後間もなく千歳川において大規模に行われることになり、この試験は北海道孚化事業の端緒を開いたものとなった。
 「魚卵孚化方法書」は物産局製物試験場の野村幾千代がまとめたもので、当時の試験経過を最も詳細に述べた文書である。別図は添付のものではなく、「魚類孚化法漁業取締ニ関スル書類」(道文書館)中にあるもので、作者は開拓使御抱え絵師、一の瀬朝春と思われる。
 米国人U・S・トリートは、明治十年缶詰の専門家として招聘されて来道した。北海道での孚化事業の創始者とされ、黒田清隆宛の手紙で孚化法を熱心にすすめている。その手紙は北海道大学附属図書館に残っている。ここでは翻訳をあげた。翻訳者の武田重秀・長沢有晃の両氏は、水産庁北海道鮭鱒孚化場技官である。
 
 四 工業
 甜菜製糖は、明治九年すでに北海道畑作農業の重大作物として、米国技師によって試作されていたが、明治二十三年本格的に工業化されることになり、札幌に工場が設けられ、不幸にして短年に終わったが、我国における最初の機械化製糖の先駆となった。
 「札幌製糖株式会社事業取調報告書 明治二十七年六月」は北海学園大学図書館蔵北駕文庫の浅羽靖文書のなかにある。というのは、この報告書が提出された時点で、浅羽靖は札幌製糖の社長であったので、手元に保存され文庫の中に加えられたものであろう。調査された明治二十七年という年は、札幌製糖が操業停止に追い込まれた二十九年の二年前である。調査の目的は記述されておらず、東京から出張してきたと思われる三名も、いかなる人物か判然としない。工場と直営農場を視察のうえ、調査した結果をみれば、なにかの理由で将来への可能性を探し求めたもののようである。この会社は道庁の保護会社の一つで、資本に対する利益保証である利子補給を受ける特典を与えられていた。ちなみに、この会社は明治三十四年に解散している。
 
 五 博覧会
 政府が殖産興業のため、内国勧業博覧会を明治十年に第一回、ついで第二回を十四年、ともに東京上野公園で開催した。北海道も第一回より参加していたが、開拓が進んだ第二回目には官民の出品点数が増加して千有余種に及んでいた。ところが、観客への適当な解説書がないので不便なため、開拓使が「第二回内国勧業博覧会出品解説 明治十四年四月印刷」を作成したのである。ここでは、そのなかから札幌関係の出品物を選んでまとめたものである。