第九編 大都市への成長
第九章 市民の文化と活動
第三節 美術
二 美術館誕生
戦前、道展のような大規模なものは中島公園内にあった農業館、小品展等比較的小規模なものは喫茶店が主な展覧会場となっていた(市史 通史四)。昭和七年(一九三二)五月一日に三越の札幌支店が開業すると、それ以前に開業していた丸井とともに百貨店が主会場となり、そうした状況は戦後に美術館が設立されるまで続いた。
札幌に展覧会場が不足していたことは、戦前から指摘されていた。戦前一五〇〇点前後あった道展の搬入点数は、二十一年には二九〇点にまで激減したものの、表1のように二十八年以降は再び一〇〇〇点を超えるようになった。道展の会場となっていた農業館は明治三十九年(一九〇六)に建築されたもので、老朽化が激しかったうえ壁面も狭く、全ての作品を展示しきれなくなり、しばらくは作品を制限するといった措置も取られた。そのため、札幌に「専用の美術館を」という声が道展の内部から起こった(美術史)。
上野山清貢は、『北海タイムス』(現北海道新聞)紙上で「美術館建設運動の提唱」を行った(北タイ 昭10・10・2)。搬入点数千六百余点という道展は、中央の美術展を除いて「全国有数の美術展である」とし、「この素晴らしい展覧会の為にも又是非美術館の新設は必要である」と説いた。ここで「官民一致した建設運動は当然起こるべきである」と述べられていることは興味深い。 十六年に会場が丸井百貨店に移った後も、作品の制限は続いた。二十二年から春季道展が開催され、秋季の本展と二本立てとなったのも会場難が原因であった(北美 創刊号)。中央で開催される大規模な国際展等も、道内では会場を確保できずに開催が見送られることが多く、大展示場の確保は緊急を要する課題であった。これは大規模な展覧会に限らず、個展やグループ展でも状況は変わらなかった。画廊も思うようには増えず、大丸画廊は会期を四日間に限定、丸善画廊は閉鎖、富貴堂画廊は教科書売場に変わるといった有様で、「慢性の会場難がこのころの札幌の状況」であった(北海道美術をめぐる25年)。 |