札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第5巻 通史5上

第九編 大都市への成長

第六章 戦後の市民生活と社会運動の展開

第二節 戦後の社会問題

一 荒廃する社会秩序

 北海道内各地に強制的に「移入」(=強制連行)されていた中国人や朝鮮人は、敗戦の日以降より、集団行動を開始し、帰国問題の政治的解決を要求して、道庁、関係企業と交渉のため札幌市内に代表を送り込んだ。市内の朝鮮人は急速に増加し(表11)、一般市民は、多数の朝鮮人が、戦時中北海道内の炭鉱や金属鉱山の現場、軍需工場の各事業場に強制「移入」させられ、労働を強いられていたことを改めて知った。連合軍捕虜や強制「移入」させられていた中国人は、はやばやと祖国に送還されたが、朝鮮人については、処遇が延期となっていた(第一節参照)。
表-11 札幌市内朝鮮人人口  
(昭15~26)
年月日人数
昭和15.10. 1978人
  20.11. 11,826
  21. 4.26373
  22.10. 1424
  24.10. 1485
  25.10. 1657
  26.10. 1651
『新札幌市史』第8巻Ⅰ統計編より作成。

 二十年十月七日に、札幌刑務所から解放された朝鮮人のなかに、安先浩(アンソンホ)という青年がいた。彼は、治安維持法違反により朝鮮や夕張で検挙され(特高月報 昭19・9)、札幌刑務所に収容されていたが、出所すると、北海道で長く労働運動を続けていた金興坤(キムフンゴン)や市内豊平で料理店を営んでいた孫邦柱(ソンボンジュ)と三人で、十月十六日に、札幌独自の組織朝鮮人民族統一同盟を結成した(道新 昭20・10・23、一ノ関弘義ノート)。目的は、一〇万人を越える北海道内「同胞」の統一と日本資本家の責任を追求することにあった。二十三日、安先浩と金興坤の二人は、第七七師団司令部(北海道拓殖銀行本店)に副師団長ランドルフ代将を訪問し、①帰国については朝鮮人独自で船を雇い、自主的に行ってよいか、②朝鮮から米を輸入し、「同胞」に配給してもよいか、③戦時協力者団体である興生会を解散させてほしい、④石炭資本家の不正を調査してもよいか、などを申し入れた(道新 昭20・10・26)。
 十月三十一日、統一同盟は、全道朝鮮人大会を市内の札幌劇場で開催し(道新 昭20・11・1)、職場を離脱していた「同胞」に就労地への復帰を呼びかけた。十一月八日には、日本の朝鮮支配に協力した興生会幹部批判の集会を大覚寺(北11東11)で開催、十一日、道庁に対し「同胞」帰国者へ二〇〇〇円支給することを要求した。十五日の道会で、道会議員・井川伊平の朝鮮人を「犯罪者集団」とする発言に対しては、後に抗議を申し入れ「民族の誇り」を示した(人間雑誌7)。
 一方十月下旬、戦時中、協和会・興生会を指導していた人々が、在日本朝鮮人連盟(昭20・10・15全国組織として結成。以下朝連と略称)北海道本部を組織し、旧来の組織の維持を図った。
 朝鮮人民統一同盟と在日本朝鮮人連盟の二つの組織は対立していたが、まもなく朝連内部に民主化運動が起こり、幹部は戦争協力者として追放され、十一月下旬になって民族統一同盟と朝連の合併が行われた(道新 昭20・11・20)。朝連は、本国における独立運動の指導者金九(キムグ)の運動を支持した。しかし、それまで朝鮮人に好意的であった米軍は、労働運動に走り回る委員長安先浩に帰国命令を出し、追放を図った。旧統一同盟は、安をはじめ、単身者幹部八人は帰国させられた(人間雑誌7)。書記長の金興坤は組織を継承して本部を小樽に移し、十二月十七日、「同胞」に帰国手続の方法を指示するなど活動を持続させたが、二十一日、マッカーサー指令による、「人心眩惑」という理由で活動停止を命じられた(道新 昭20・12・28)。
 一方、朝連を追放された旧幹部は、十二月十日、本国からやってきた臨時政府代表と称する洪禎益(ホンジョンイク)等と朝鮮人援護局を組織した。総裁には洪禎益、副総裁には南昌雲(ナムチャンウン)が就任し、本部は米軍第七七師団司令部内に設置された朝鮮臨時政府代表駐日事務館内に置いた。活動を停止させられた金興坤らも朝鮮人援護局に参加したが、援護局の「独裁的」な運営に違和感を感じたという(人間雑誌7)。
 朝鮮人援護局は、十二月十五日、道内在住の「同胞」の人口調査を行ったが、多様な考えの「同胞」をまとめることは困難であった。例えば、朝鮮人援護局の集会に参加した金興坤等は、左翼分子として排除されたり、金住喜(キムジュヒ)は、ヤミ市取り締まりのため朝鮮人自衛隊を組織して、二十一年一月十二日には札幌市内のリンゴ流通を露店商朝鮮人援護局に独占させるよう札幌市に要請するなど、配給の適正化を求める行動を起こした(道新 昭21・1・13)。