札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第5巻 通史5上

第九編 大都市への成長

第六章 戦後の市民生活と社会運動の展開

第一節 市民生活の混乱

二 市民生活の混乱

 戦災者に混じって戦災孤児たちの受け入れが行われた。『札幌育児園の九十年』によれば、二十年三月二十三日に、大阪府の戦災孤児を収容したのが最初で、以後継続的に行われた。戦災孤児の収容では、同年富良野に設立された「国の子寮」(寮長・名取マサ)が有名である。政府は、二十年九月以降、次々と戦災孤児対策を打ち出した。二十一年七月一日現在の北海道庁でのとりまとめでは、札幌をはじめ全道に戦災孤児要保護少年は約七〇〇人に達し、駅待合いや公園などで寝起きし、犯罪行為も悪質化の傾向がみられるというありさまで、応急措置として道内一六カ所の収容施設に収容することにしたと新聞は報道している(道新 昭21・7・16)。北海道庁でも、二十一年十月、関係機関、団体代表者による「北海道保護委員会」を発足させた。札幌市の場合、二十一年七月二十九日から三日間にわたり札幌警察署によるいわゆる「浮浪児」の一斉調査を実施、五人が札幌報恩学園に保護された。当時、市社会課の把握している限りでも四四、五人が駅待合い室や防空壕、大通公園の草むらにゴロ寝で過ごし、昼は街路、ヤミ市を自由に遊び回り、夕方になると残飯を求めて流浪するといった状況で、彼らの三分の二は樺太、本州、道内の戦災孤児たち、その他が貧困家庭の子どもたちで、親が亡くなったり、はぐれたりした浮浪児たちであった(道新 昭21・8・8)。二十二年になってもこれら戦災孤児たちは、札幌駅待合いなどにたむろするありさまで、このため札幌市では、二月二十六日夜半から、札幌警察署と協力して一斉調査し、二十七日午後三時までに一六人を保護した(道新 昭22・2・28)。これらの戦災孤児たちは、札幌育児園札幌報恩学園札幌愛育園興正学園、北海道家庭学校(遠軽)などに保護収容されたにもかかわらず、「浮浪児」は増加傾向を示し、うち本州方面から北海道に渡って来た戦災孤児三〇人を含めて同年六月段階で約百五、六十人にのぼった。多くが、遅配・欠配の食糧事情の悪さや、愛情の薄い親元からの家出少年少女たちであった。彼らは、札幌駅や苗穂駅を定宿とし、「クツ磨き」や「キップ買い」を仕事とし、一日二〇〇円の稼ぎ(テキヤ=香具師(やし)の配下にあり収入をハネられた)があればいいほうであった(道新 昭22・6・23)。二十二年の『事務報告』でも、「浮浪児一斉保護」の結果として、少年院入院一四人、判決未定仮入院一〇人、一時保護者一五人、即日釈放者一四人の計五三人と、施設に保護収容されるのは全体の三分の一程度で、残りは「クツ磨き」等をして自ら稼がねばならない状況下におかれていた。
 戦争中はあまり見られなかった浮浪者が、再び都市集住傾向を見せはじめた。二十二年の札幌市の場合、八、九月頃最も多く、約五〇人を数え、冬期暫定対策として二四人(男一八、女六)を札幌明啓院(昭21・5・2札幌無料宿泊所を名称変更。二十五年に収容定員二五〇人に増員)に収容した。うち稼働出来る者はわずか八人であった(昭22事務)。その後の市社会係(昭25保護係)で取り扱った浮浪者の数は、『事務概況』によれば、二十三年九九六人(延べ人数)、二十四年三一四人、二十五年三六七人、二十六年四三〇人といった傾向を示した。札幌市社会課が二十五年に札幌明啓院に収容中の一三一世帯、一五三人を対象に調査したところ、稼働出来る者は八一人で約半数に過ぎなかった。浮浪原因別にみると、総世帯のうち、生活の無計画八〇、家庭の貧困二三、戦災・失業一五、身体精神障害一三という状況で、さらに年齢では、二歳の乳児から七四歳までと各世代にわたっており、二六~四〇歳までの青壮年層が三分の一以上を占めていた。出身地別では、道外が八六、道内が四五と、断然道外が多かった。浮浪者を激増させた要因として新聞は、二十四年末まで日雇い登録者が一〇〇〇人内外だったのが二十五年に入って二〇〇〇人に倍増したこと、日雇い稼業で暮らす「血マナコ組」「職場整理組」が、食うか食われるかの戦いの結果戦列から落ちこぼれた人等が増加したことによるもの、と分析した(道新 昭25・3・12)。
 当時の札幌市の失業対策は、札幌公共職業安定所、日雇勤労署、市内各生活相談所、各引揚者収容所等が連絡を図り、求人・求職開拓に努めていた。二十三年の場合、求人年合計五七〇人に対して、求職年合計五〇四人、実際の就職者三五八人とまずまずの状況であった。ところが、二十四年の場合、引揚者復員者の増加に加えて企業整理等人員整理が伴って求人はわずか一〇二人、これに対して求職一〇七〇人と、求職者の倍率は約一〇・五倍にも達した。同年、政府は、経済安定九原則強行による超緊縮財政支出のもとで、新たな解雇者・失業者が排出されたため、「緊急失業対策法」を制定した。市社会係でも、失業救済事業を、市交通局、清掃、土木、都市計画課において実施した。
(期別)    (期間)   (一日割り当て人員)  (事業内容)
第一四半期  四~六月   二〇〇人     環境衛生及び公共施設整備事業
第二四半期  七~九月   二〇〇人     水路、公共空地整備及び環境衛生事業
第三四半期  一〇~一二月 二〇〇人     水路及び道路整備事業

 市では、地方自治法第一七四条の規定に基づいて、失業対策に関する調査研究及び実施の協力を求めるために臨時失業対策専門委員会を設置し、失業者救済対策の樹立のため種々協議した。
 二十四年の企業整理等人員整理の嵐はすさまじかった(第三節参照)。
 二十五年の市の失業対策は、道路(土木課 割り当て人員一万八〇〇〇人)、環境(清掃課 同二万七七五〇人)、街路(計画課・体育課 同一万一二五〇人)、公共(交通局 同三〇〇〇人)の吸収人員は六万人が見込まれ、実際の吸収人員は五万一九四〇人に達した。札幌市の同年十二月現在の失業状況を示すと、日雇登録人員は、男七七七人、女三三五人、計一一一二人、このうち日々就労している者は、男三三〇人、女一七〇人、計五〇〇人に及んだ(昭25事務)。
 札幌公共職業安定所に押し寄せる日雇労働者は、一日約五〇〇人、長蛇の列をなしたことは勿論である。しかし就労出来る者は約三〇〇~二五〇人止まり、そこで考案されたのが、受付は朝六時半から七時までとし、先頭の者と最後尾の者とが係員立ち会いのもとでジャンケンをし、勝った方から後ろへ、あるいは前へと順番にその優先就労権利者として職にありつく、一方負けてアブレた者は、次の日には無条件優先とする、といった簡単・公平な整理法であった。これにより一日おきには必ず就労出来るようになったという(道新 昭25・2・19)。
 札幌市民は、戦争の傷跡をひきずりながら、生きんがために精一杯の生活を送るのがやっとであった。