札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第5巻 通史5上

第九編 大都市への成長

第六章 戦後の市民生活と社会運動の展開

第一節 市民生活の混乱

二 市民生活の混乱

 食糧だけでなく、すべての物資が不足した。最低生活を営むのに必要な燃料、衣料品、住宅について記しておく。
(1)燃料 寒冷地にとって食糧の次くらいに必要なのが石炭をはじめとする燃料であった。石炭・木炭について見てみる。なかでも石炭は、敗戦と同時に生産率がにわかに低下し、札幌の集荷量が日々減少したうえ、降雪多量のため輸送混乱を招き、配給渋滞を来した結果、二十年十二月二十四日現在、家庭用石炭は従来一世帯平均約二トンのところ、一・九五トンであった。最も需要の多い木炭の場合、同年の場合、一世帯当たり約二三・四貫匁の配給実績を示したが、戦災者の市内転入者増加をみ、石炭の未配給者やストーブの設備のない家庭を対象に、一世帯当たり五貫匁の特配を行った。このほか、結束薪、薪材、豆炭、ローソクなどの配給も行われている。
 二十一年三月、窮迫した燃料事情打開のため、市臨時燃料対策委員会を設置し、燃料施策に積極的に取り組むことになったが、翌年の「地方自治法」の制定により、市臨時燃料専門委員会に発展的解消を遂げた。石炭事情の打開のため北海道都市家庭用石炭の確保協議会を設置したり、家庭用石炭値引き運動を中心に強力な運動を展開した結果、北海道沿線等貯炭販売方針を設定させることに成功した。二十四年八月、石炭が統制撤廃され、九月から自由販売となった。しかし、当初配給よりトン当たり三〇〇~一〇〇〇円も安くなると予想されたが(道新 昭24・9・27)、国庫補助の打ち切りや、自由販売によってかえって販売会社への入荷量も少ないばかりか、上・中級炭は品切れ状態で、いくらか質が上がった粉炭もあまり歓迎されなかった(道新 昭24・11・21)。二十五年三月には木炭の統制も全面的に撤廃された。
(2)衣料品 敗戦当時、戦災による生産の減退、原材料の不足などのために衣料品は欠乏していた。進駐軍からの返還の旧軍需品なども、戦災者や引揚者の救護用に向けられたので、一般家庭には配給されなかった。十七年以降、衣料切符制による配給が行われていたが、戦局の悪化とともに現物の裏づけがなくなったため、切符の交付が停止されたままになっていたので、どこの家庭でもあるもののやりくりで、新品はまず入手できなかった。
 二十一年の場合の一般物資の配給状況は、まず特殊衣料品として引揚者・戦災者等に二三万五〇五八点が有償あるいは無償で配給された。さらに指定衣料品として七〇万八八八八点、学童服四七〇五着、妊産婦用衣料品(妊産婦総数八六一一人に対し)ネル、晒、縫い糸、ベビー下着、衛生綿、ガーゼ、中入綿各一点ずつ、嬰児用衣料品(嬰児総数六四〇九人に対し)ネル、毛糸、縫い糸各一点ずつが配給されるという状況であった(昭21事務)。二十二年十月から新衣料切符制による配給制度が復活したが、新制度では、衣料品配給規則および衣料切符規則によって、生産者から卸売商・小売店を経て、衣料切符の点数分だけを消費者に配給することに改められた。登録店も消費者の投票によって指定されたので、消費者は、登録店であればいずれの店でも購入することができた。この新切符制度によって、消費者は、年間に所定の点数内で繊維製品が購入できることになったが、実際には、現物の甚だしい不足のために、当初は一人一年間にタオルもしくは手ぬぐい一本、靴下または足袋一足、縫い糸一〇匁(三七・五グラム)、布地一ヤール(約九一センチ)が購入できればよいくらいであった。
 二十三年の場合の衣料品の配給は、表8のごとくであった。
表-8 衣料品配給状況(昭和23年)
種類
 引揚者・戦災者・困窮者用
 蚊張1,626 張
 毛布9,868 枚
 布団側2,017 枚
 衣料品その他116,443 点
 妊産婦ならびに乳幼児
 外衣(レキンス・毛糸・その他)7,960人分
 ネル15,532人分
 晒8,274人分
 幼児用
 外衣(肌着・その他)83,280 点
 衛生綿・ガーゼ
 妊産婦用衛生綿19,976人分
 妊産婦用ガーゼ19,976人分
 家庭用衛生綿21,000人分
 石鹼
 乳児用石鹼17,306人分
 一般家庭用561,805人分
 学童学生服
 学童服13,770 着
 中制服16,250 着
『札幌市事務概況』(昭23)より作成。

 衣料品の場合、食糧と異なり戦前および戦時中からのストックに頼っていたため緊迫感に乏しく、都市中間層以下の生活者においてはすでに「竹の子生活」も底をついていた(道新 昭24・1・10)。というのも、それらの衣類は食糧獲得のために農村に流れ、澱粉やかぼちゃ、じゃがいもと物々交換されていた。衣料品の供給事情が好転を示すようになるのは、二十四年ころからである。当時の金融逼迫により大衆の購買力が減退し、生産者は滞貨に悩むというような状態が生じたため次々と統制解除になっていった。まず、二十四年絹製品の統制が解除になり、二十五年毛織物・人絹・スフ・麻などが自由販売になり、もっとも需要の多い綿は二十六年配給統制からはずされ、ただ価格の面で公定価が残ったが、衣料品は全面的に自由販売となった。二十五年の朝鮮戦争勃発以降、二十七年三月まではいわゆる糸ヘン景気で、衣料品は暴騰し、とくに需要のある綿、純毛製品が市場から姿を消すなど一般市民に不安を与えたが、二十六年四月以降値下がりにつぐ値下がりを示し、街頭投げ売りも多くみられ、衣料の月賦販売も開始され、事情は一段と好転した(昭27道年鑑)。
(3)住宅 札幌市では、敗戦間際に南四条西三丁目から豊平橋にかけての道路拡幅による強制建物疎開などで住宅の減少が多少あった程度で、戦災都市のような住宅不足はなかった。しかし、敗戦直後からの札幌市への戦災者や外地引揚者の受け入れ増加によって深刻な住宅不足を来した。二十一年の場合、引揚者数一万四七四二人(五五八八世帯)、戦災者数五五二四人(二〇五六世帯)を受け入れた関係上、住宅難緩和策として余裕住宅を調査して紹介したり、外地引揚者のために市内公共・遊休建物の転用、月寒、丘珠旧軍用建物の借用・市営共同住宅化を図った(昭21事務)。二十二年には住宅事情の深刻化に対処するため、住宅係を設け、臨時住宅専門委員会の設置、外地引揚者収容施設市営住宅、住宅解放運動などを担当した。こうして、二十一年度には国庫補助二八二万二〇〇〇円を受けて外地引揚者収容施設六カ所が、また二十二年度には、国庫補助六三五万三〇〇〇円を受けて三カ所の収容施設が完成し、収容人員は三九七八人に達した(表9)。
表-9 外地引揚者収容施設(昭和21・22年度分)
施設所在地坪数収容人員収容世帯数備考
丘珠引揚者収容所札幌村1,095.006001203寮
月寒引揚者収容所豊平町2,094.501,5002769寮
愛隣館引揚者収容所札幌市30.00305
駅前引揚者仮泊所札幌市31.5050
円山更生市場札幌市114.00459
円山公会堂収容所札幌市117.006012
武徳殿弓道場札幌市159.25110211寮
旧北部軍司令部豊平町1,083.426141308寮
旧歩兵第25連隊豊平町1,474.2096914912寮
合計6,198.873,978722
『札幌市事務報告』(昭22)より作成。

 このほか、北海道レース倶楽部より寄付された簡易小住宅二〇戸、および同年開催の全国授産振興博覧会の建物を買収して移築、市営アパート八棟七〇世帯用とした(昭22事務)。
 二十三年段階の無縁故者引揚者収容施設は、四四カ所を数え、八〇三世帯、三九〇三人が収容されていたが、住宅問題はまだまだ深刻な事態をかかえていた。このため二十三年度においては、手稲鉱業所労務者住宅二五八戸を買収、無縁故者引揚住宅五四戸、分譲庶民住宅一〇二戸、市職員住宅などに転用した。
 札幌市の住宅政策は、敗戦後の政府の住宅政策によるものであった。二十年十一月の住宅緊急措置令による余裕住宅の開放、二十一年十月の引揚者の越冬対策として、都道府県の責任において住宅・衣料等の斡旋要請、二十一年九月の地代家賃統制令の制定等々であったが、遅々として進展がみられなかった。二十三年、建設省では、全国住宅調査を実施し、住宅の不足数等を調査した。この結果をもとに、二十三年度から国庫補助による勤労者およびその他庶民を対象とした庶民住宅建設に着手、二十五年度以降には住宅金融公庫法、賃貸住宅融資、公営住宅法、その他住宅建設をはかる関係法令・規則を制定して市町村公共団体をして各種小規模住宅の建設推進をはかった。
 札幌市でも、二十三年度以降、国庫補助による庶民住宅の建設が開始され、二十三年度市割り当て戸数八〇戸に対し、一四四〇人が応募した(昭23事務)。応募資格は、月収四〇〇〇~一万二〇〇〇円以下、現在立ち退きを要求されている事実がある者、定職がある者、一部屋に二夫婦が同居している者等といった特殊事情もあった(道新 昭23・11・27)。二十四年度の場合、木造、鉄筋アパート、ブロック住宅合わせて一三〇戸の庶民住宅の割り当てが行われ、十月の申し込み締切りでは、二四四〇人の応募者があり、平均一九・四倍の競争率となった(道新 昭24・10・9)。いかに住宅事情が切迫していたかが知られよう。この年、札幌市では解除資材使用のいわゆる「一〇万円住宅」を斡旋し、四七〇戸の申し込み者があったが、中には粗悪材料を用いたため、風で倒壊する事故が起こったり、大きさも一〇~二〇坪くらいのバラック住宅であった。札幌市は、年々人口増加傾向を示し、二十五年二月段階で、住宅不足約一万四〇〇〇戸という事態に直面した(道新 昭25・2・5)。札幌市の住宅不足は、二十六年の公営住宅法の公布以降も急増する人口に対し、住宅政策が追いついて行かない状態が長く続いた。
 戦後の市民生活を最も脅かしたものは、悪性のインフレであった。日本経済は戦争中から、既に異常なインフレ段階に入っていた。戦争インフレは絶え間なく進み、政府は貯蓄の奨励、公債の強制割り当て等でインフレ高進を抑えようとしていたが、これはかえって一般国民の生活を苦しめるだけであった。
 二十年の敗戦後、政府は軍需補償のためとして膨大な軍需費の放出を行い、一方では経営者のサボタージュが行われたため、一挙にインフレが激化した。インフレの進行の度合は、札幌市の物価指数をみるとよくわかる。表10は、二十一年一月を一〇〇とした場合、二十二年一月以降二十四年五月現在の主食品から雑貨その他にいたる三八品目についての平均指数を示したものである。主食品は五・七倍、副食品は八・六倍の値上がりになっており、寒冷地に欠かせない燃料においては、なんと一〇倍以上も値上がっている。インフレにより、物価は止め度もなく上がり続け、市民生活を脅かした。具体的に、二十一年上半期の生活物価の動きをみると、米一升の公定価格が二円八八銭に対して札幌・小樽は四〇円、函館が六〇円といった具合であった。砂糖は一〇〇匁(三七五グラム)の公定価格九〇銭のところ、旭川の一二八円をトップに道内平均で八九円もした。ビールにいたっては、公定一本(〇・七二リットル)三円に対して釧路五〇円、札幌三五円、帯広二五円と地域格差があった(私たちの証言 北海道終戦史)。
表-10 札幌市物価指数の推移(昭和21.1~24.5)
昭22.1昭23.1昭23.10昭23.11昭23.12昭24.1昭24.2昭24.3昭24.4昭24.5
主食品  (7品目平均)166.7544.2547.6542.0551.7540.1541.2551.0547.9573.2
副食品  (8品目平均)181.9693.7585.6802.7818.4910.2918.0833.4873.4859.1
調味料  (4品目平均)210.1470.4378.7351.8431.2365.9357.0359.9303.1493.8
飲料嗜好品(4品目平均)174.0380.1484.9487.2498.8487.3484.9487.3460.8403.9
燃料   (3品目平均)197.7774.81,035.2914.4945.11,031.41,034.11,035.2848.4852.1
衣料身廻品(6品目平均)62.2536.2603.7655.5574.2651.8697.3697.3742.5668.7
雑貨その他(6品目平均)223.1401.1379.9389.9391.2574.0575.1649.6644.5554.6
総平均  (38品目平均)174.2533.8602.7598.5605.7653.3664.1664.3651.4641.2
『市勢要覧』(昭24)より作成。

 このインフレの原因は、通貨の無制限の放出であった。日銀の貸出高も十九年三月末には四二億円だったのが、二十年末には五五四億円と、わずか一年あまりで一〇倍以上のお金の量が放出されたことになる。道内の二十一年八月の流通高二六億円は、敗戦時の約一〇倍にもふくれあがっていた。わずかな生活物資に対し、たくさんの買い手市場、物価が日に日にせり上がったのも無理はない。