札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第5巻 通史5上

第九編 大都市への成長

第六章 戦後の市民生活と社会運動の展開

第一節 市民生活の混乱

一 戦争の傷跡

 二十年、本州諸都市の空襲激化にともない道内に避難疎開する戦災者が、著しく増加した。札幌市でも、同年三月末より転入が開始され、札幌駅前に案内所を開設し、縁故先の誘導・旅館の斡旋・傷病者の応急医療・救護などを行った。希望者に対して住宅・職業の斡旋を行い、七月の案内所閉鎖までに約五〇〇件を取り扱った。八月二十一日からは樺太島民の引揚者を対象に案内所が再開され、戦災者も受け入れられた。翌二十一年末までに扱った戦災者の罹災地別人員は表2のとおりで、東京・神奈川など道外が九二パーセントを占めていた。
表-2 戦災者罹災地別人員
罹災地別罹災人員世帯数
根室16065
函館164
本別166
釧路5520
室蘭9421
その他(道内)5321
東京3,5051,286
神奈川458186
大阪299109
岡山218
広島229
その他(道外)825321
合計5,5242,056
『札幌市事務報告』(昭21)より作成。

 その後戦災者は、毎年増加傾向を示し、生活保護法の適用を受ける者もいた。二十四年段階では、市内定住者は二四八四世帯、六三八八人と一・八倍にふくれあがったものの、この年の『市事務概況』では、「要保護の必要は極めて少なく生活は常態に復した」と報告している。
 戦災者とならんで、札幌市は、樺太引揚開始にともない、北海道庁割り当て無縁故者の受け入れを積極的に行った。前述したように樺太引揚者を対象に八月二十一日には札幌駅前に案内所を開設、とりあえず休養施設とし、ほかに寺院、社会事業施設七カ所、丘珠収容所清和寮を開設して収容した。二十年中に収容した人数は九二七人、延べ六万二七六八人にのぼった。十二月末、道庁の方針により道内指定支庁管内町村に生活必需品一式を携行・分散した者は、七五世帯、三四六人を数え、案内所で諸斡旋、休養所を利用した者は九月末で三〇〇〇人にのぼった(昭20事務)。
 二十一年以降、樺太島民を含め引揚者の数は増し、援護を要する者が増加傾向を示した。十一月、市民有志をもって構成する外地引揚者対策委員会を設けて施策推進機関としたほか、札幌レース倶楽部の寄付金二五万円をもとに、札幌駅前に案内所を開設、宿舎・収容所の斡旋、給食・医療・旅費支給等の受け入れ業務を兼ねた応急援護と各種相談業務を行った。援護内容は、生業・就職に主力を注ぎ、生活困窮者には生活保護法を適用し、その他生活必需品の優先配給、住宅・内職の供給・斡旋などを行った(昭21事務)。
 その後も引揚者は続き、二十二年一万二五五一人、二十三年六四五〇人、二十四年六九六人という状況であった。定着人員も、二十四年段階では三万四四三三人(世帯数一万五一四)にも及び、生活保護を受ける世帯は、一七六世帯、六三一人に達した。収容場所としては、豊平町月寒元兵舎を改修して入居させたり、緊急に引揚者住宅の建設が急がれた(後述)。
 復員は、八月二十三日から、内地および外地において軍務に服していた七二〇万人余に及ぶものであった。うち三六〇万人余は外地の戦地に、また三〇〇万人余が内地の兵営にいた。内地の兵員の復員は、八月から九月にかけて完了したが、外地の兵員に関しては連合軍の艦船の協力なしでは進められなかった。
 二十年八月二十七日、厚生省では、復員帰還軍人のための就職斡旋など応急措置を決定、帰還軍人・傷痍軍人のための実施手続きを勤労局長より各地方長官に通牒した(道新 昭20・8・29)。札幌市でも九月一日頃から札幌鉄道管理局の復員輸送が開始され、札幌駅頭でも、雑嚢を肩に、背嚢を背負い、その上に毛布を巻いて結びつけた復員兵たちがいっぱいあふれ、てんやわんやの騒ぎであった(私たちの証言 北海道終戦史)。このため、札幌市では、九月十二日から十月二十日まで札幌駅前に臨時出張所を設置し、復員相談所とした。相談業務の内容は、表3のとおりで、就職・住宅相談、諸証明書の交付といった事項が多かった。
表-3 復員相談所取扱件数(昭和20年)
取扱事項件数
就職相談528
住宅宿舎の斡旋相談227
縁故者の捜索23
就学相談79
旅行相談118
寝具衣類に関する相談144
賜金恩給に関する相談67
傷病者の応急処置2
帰農相談93
脱出復員者の正式手続き131
開業に関する相談60
諸物資配給に関する相談176
諸証明書の交付192
その他の相談応接374
合計2,214
『札幌市事務報告』(昭21)より作成。

 二十年九月七日、市役所の一室に復員相談所が開設された。二十一年から三十三年の間の復員者・未帰還者の数を『市事務概況』から抽出したのが表4である。二十五年、ソ連邦側が、「日本人の送還は戦犯及び僅かの病患者を除き完了」と発表、復員は中絶した。二十八年、日赤・日本平和連絡委員会・日中友好協会と中国との「共同コミュニケ」の成立(北京協定)、また日ソ赤十字代表による「邦人送還に関する共同コミュニケ」の調印により集団引揚が再開された。三月二十三日を皮切りに「北京協定」に基づく中国引揚が十月まで七回にわたって行われ、二万六〇五一人が帰国した。これにより札幌でも五三世帯、一二三人(うち元軍人二二人)が定住した(昭28事務)。
表-4 復員者・未帰還者別数(昭和21~33年)
復員未帰還者備考
昭2114,348    3,948



ソ連邦復員中絶


中国・ソ連邦より復員再開
 22776    2,784
 23642    1,044
 24432    807
 25―    704
 26―    640
 27―    639
 28123(中)   
31(ソ)   

338
 296(中)   
22(ソ)   

323
 304(中)   
8(ソ)   

344
 319(中)   
15(ソ)   

314
 321(中)   
1(ソ)   

290
 3342    
1(里帰り)  

『札幌市事務概況』(昭21~33)より作成。
1.未帰還者の数は,留守家族側の申告によるもので,必ずしも復員者の数と連動するものではない。
2.復員者・未帰還者には,元軍人のほか一般邦人をも含む。

 十二月一日にはソ連から引揚船興安丸が舞鶴に入港し、八一一人の抑留者(ソ連邦の裁判で有罪の判決を受け刑期を満了した者、または赦免された者)が帰国した。これにより三一人(うち元軍人一一人)が定住した(同前)。札幌市では、海外復員者・帰国者対策として、復員軍人に優先的に住宅や就職の斡旋に努めた。二十八年中国からの帰国者の就職状況は好調でその率八一パーセントに及んだ。しかし、生活困窮家庭は一一世帯もあり、いずれも世帯主が病気あるいは母子世帯であった。このほか教育扶助一〇人、医療扶助九人と、従来よりは減少しつつあった。引揚者住宅をこの年、白石町に七棟一四戸、北二五条西三丁目に五棟一〇戸建設した(同前)。
 札幌市では、二十九年十二月十五日現在の中国・ソ連邦からの「引揚者調」を行った。それによれば、二十八・二十九年に中国及びソ連邦より帰国した世帯主の就職状況では、職業安定所斡旋によるものが一八人、知人の世話によるもの三九人、官庁・会社・学校に復職の者一二人、未就職者三人、自営一二人、その他二二人となっていた。これらの世帯のうち、市内四カ所の引揚者住宅入居者は、四六世帯、また、生活保護法に基づく保護世帯は二七世帯、特別未帰還者留守家族援護法による医療保護対象者は三人、更生資金貸し付けは二九人、一四二万円にのぼった。
 同時に行われた「未帰還者調」の在外地別では、表5の状況であった。中国地区、樺太地区、ソ連地区が圧倒的に多数を占めていた(昭29事務)。
表-5 未帰還者所在別人員調
種別樺太満州中国朝鮮ソ連南方沖縄千島不明合計
一般邦人3960211059214160
軍人1585622441125163
合計54145271253361139323
『札幌市事務概況』(昭29)より作成。

 「北京協定」に基づく中国からの集団引揚は、三十三年七月の第二一次まで、また、赤十字協定によるソ連集団引揚は、三十一年十二月まで続けられた(援護50年史)。