札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第5巻 通史5上

第九編 大都市への成長

第六章 戦後の市民生活と社会運動の展開

第一節 市民生活の混乱

一 戦争の傷跡

 昭和六年の満州事変の勃発、そして十二年の日中戦争への突入、ついで十六年戦闘状態に入った太平洋戦争と、一五年間も続いた戦争で、札幌市民が召集(一般・志願など)・徴集(軍属など)で一体何人が出征していったのか数字を押さえることは困難である(市史第八巻Ⅰ・統計編参照)。戦時下の機密事項なのか『札幌市事務報告』は十一年を最後に徴兵統計の掲載はない。
 厚生省の発表では、アジア太平洋戦争によって犠牲となった陸・海軍部隊の戦没者数は、二四〇万人にものぼった(援護50年史)。札幌市の場合、六年九月十八日に始まる満州事変においては、二七戸の傷痍軍人遺家族(しょういぐんじんいかぞく)の家へ婦人団体、在郷軍人会、各青年団が慰問に訪れたとある(昭7事務)。また、日中戦争に突入した十二年の場合、軍事扶助法(軍事救護法を改正)の対象となった家族のうち「事変ニ依ルモノ」で生活・医療扶助を受けた者は合計二七〇世帯、九〇六人と、何倍かに増えているのがうかがわれる。この世帯数は「北支事変」による犠牲者、すなわち戦没者数(戦病死を含む)とみて差し支えないだろう(昭12事務)。戦時下では戦没者の数の公表は控えられ、昭和二十一年、札幌市でははじめて戦没者総数を二五九三人(遺族二五六三世帯)と公表した(昭21事務)。この戦没者の数は、遺家族の申請等により年々数を増し、二十七年の「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(以下援護法)施行段階において、軍人・軍属合わせて三七二四人と把握されている。これは、十二年の日中戦争勃発以来の戦没者の数を合算したものである(昭27事務)。なお、占領政策解除後の札幌市主催戦没者追悼式段階では、「札幌出身三千八百八十五柱」(道新 昭27・6・12夕)といった数字もみられることから、三七〇〇~三八〇〇人程度であったと見て大過ないであろう(この戦没者の数の増加には、二十五年の白石村の合併に起因することも考慮する必要がある)。以後も、新たな戦没者公報接受や町村合併、その他の社会的起因によって戦没者の数が増加していったことは言うまでもない。ちなみに『北海道連合遺族会四十周年記念誌 いばら道歩みきて』(昭61)によれば、昭和六十一年現在の札幌市の戦没者の数は、二万五四〇二人と把握されている。増加の要因は、市域が拡大したことや市内への転入者など社会増によるものである。戦没地の多くは、ノモンハン、アッツ島、ガダルカナル島、フィリピン、ニューギニア、樺太、沖縄等の激戦地が多い。死因は、魚雷攻撃や頭部貫通銃創、「玉砕」、特攻戦死など直接戦闘によるもののほか、マラリア、結核、赤痢、栄養失調によるものが極めて多かったことも事実である。
 多くの戦没者の陰には、無数の遺家族が残された。札幌市の戦没者遺家族組織の結成は、全道の遺族会と同時で、二十一年三月である。だが、占領下にあったため活動が制限され、戦後はじめて戦没者追悼式が行われたのは、前述のとおり占領政策解除直後の二十七年六月十一日のことである。札幌市主催の追悼式には、遺家族四〇〇〇人が円山グラウンドに参集して霊を慰めた(道新 昭27・6・12夕)。この年七月十一日より援護法に基づいて遺族年金及び弔慰金請求の受付が開始され、初日だけで七〇人が相談窓口を訪れた(写真2)。八月一日には、遺族相談所が開設されている(昭27事務)。援護法施行直後のデータはないが、二十八年の場合、遺族年金・弔慰金の交付件数は、それぞれ二二二五件、二九五五件となっている(昭28事務)。援護法は、その後、幾多の改正によって適用範囲が広げられるにいたっている(援護50年史)。

写真-2 昭和27年7月11日より開始された遺族年金等の受付け(道新 昭27.7.12)