札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第5巻 通史5上

第九編 大都市への成長

第五章 高度成長期の産業発展

第二節 土木・建設業

一 土木・建設業界

 戦後に建設省が発足すると、建設業界の近代化に向けて施策が整備された。昭和二十四年五月に建設業法が公布され、土木・建設業者の登録制がとられた。二十九年三月末における道内の土木・建設業者は大臣登録三一社、知事登録三七一〇社、合わせて三七四一社であった(北海道建設業協会八十年史)。その後の道内登録数をみると、三十三年末約四七〇〇、三十八年末約五六〇〇、三十九年二月末には約六四〇〇と増加し続けている(道新 昭39・5・26)。
 このように数の多い土木・建設業者だが、大部分が中小零細企業で、倒産数も他業種に比べ群を抜いて多かった。個人経営の組織が多く、金融面でも不利を強いられ、また戦前以来の下請制下で多数の業者が仕事を安い請負価格で請け負わざるを得なかった。
 土木・建設業の特徴をよく示すのが、冬季失業の問題である。基本的に土木・建設工事は、春から秋にかけて行われ、冬季はきわめて少なかった。そのため土木・建設労働者は、冬季間は失業し、失業保険を受給して冬をしのぐという者が少なくなかった。図1は、札幌市内の失業保険受給者数を月別に示したものである。グラフの第一の特徴は、一月から四月にかけての冬季に受給者が格段に多く、その他の時期には少ないという季節的変動がきわめて大きいことである。これは土木・建設業従事者が通常期(春から秋)に働き、冬季(一月から四月)に失業保険を受けているからである。そして、この傾向は、昭和四十年代においてもなくなるどころか、むしろ受給者の増とともに拡大していく。そこで、冬季に土木・建設工事を続行し、通年施工を実現することが、業界の課題であった。

図-1 失業保険受給者数
札幌市『統計月報』,同『統計季報』により作成

 冬季施工の試みとして、三十四年十一月着工、三十五年五月完成のサッポロビール狸小路ビヤホール新築工事が早い例である。この工事は、施主側の希望により客の少ない冬季間に施工することとなった。受注した伊藤組土建(株)は、建物全体がすっぽり入る上家を構築し、雪、風を防いだ。厳寒下のコンクリート工事が至難だったが、現場練りとし、地下室にコンクリートミキサーを設置、骨材として用いる砂利は凍結を防ぐためにスチームで保温、コンクリート調合、打設、養生時にも温度管理に細心の注意が払われて、工事は首尾良く行われた(伊藤組社報 第四号、第七号)。
 業界の組織化という面では、戦後の真駒内米軍キャンプ建設工事を機に有力業者の協調が図られ、札幌では札幌建設業協会が結成された。札幌建設業協会は全道規模の北海道建設業協会とともに業界の近代化につとめた。中小土木・建設業者に銀行融資がなされないことから、全国に先駆けて建設業者による金融の方式が模索され、昭和二十七年九月、北海道建設業信用保証株式会社が設立された。これは、官庁が公共事業の前払い金を業者に支払った際、その業者が工事を完遂しなかった場合に前払い金を保証するという事業を行う会社で、内地では東日本建設業信用保証(株)、西日本建設業信用保証(株)が設立された(北海道建設業協会八十年史)。
 戦後の米軍がもたらしたものにブルドーザーなど建設機械がある。戦前日本の土木工事は、人力を用いた人海戦術に多くを依存していた。米軍は、大型建設機械を持ち込みまたたくまに基地を作り上げる。日本の土木・建設業界も駐留軍の建設機械払い下げを受けながら、工事の機械化につとめるようになった。北海道の土木・建設業者が本格的な機械による工事を経験したのは、二十七年からの千歳国道(現在の国道三六号線、通称弾丸道路)工事である。二十八年二月には、日本建設機械化協会北海道支部が発足したが、土木・建設企業が大型建設機械を自己保有するには限界があったため、建設機械を貸与する会社設立構想が持ち上がる。三十二年二月、北海道開発公庫、機械メーカー、道内建設業者の出資により北海道機械開発株式会社が設立された(北海道機械開発株式会社25年の歩み)。