札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第5巻 通史5上

第九編 大都市への成長

第四章 戦後改革と経済

第一節 戦後改革から戦後復興へ -工業を中心に-

二 財閥解体と軽工業の復興

 麻糸紡績、麻織物業は、原料である亜麻が全国の九九・九パーセントを北海道で産することから、北海道において発達してきた。戦前の帝国製麻(株)は、昭和十六年に太陽レーヨン(株)と合併し、帝国繊維(株)となり麻、人絹、スフを製造していた。終戦時、札幌には、亜麻原料工場としては帝国繊維琴似工場が、麻糸紡績、麻織物製造の亜麻製品工場としては同札幌工場があった。戦争末期には軍需会社法(昭19・1公布)により、十九年四月に帝国繊維は軍需会社に指定され、五月には札幌工場は他工場とともに軍需工場に指定された。帝国繊維は企業合併の結果、二十年二月には製品工場として札幌工場をはじめ道外、朝鮮、台、東南アジア占領地に一七の工場をもつ巨大企業となっていた。空襲により大阪工場、富山工場、広島工場はじめ道外の工場は大きな被害を受け、亜麻紡績機錘数の約四割を失ったが、札幌工場は無傷だった(帝国製麻株式会社五十年史)。
 二十一年七月、GHQの指示を受けて社内で帝国繊維再編成資料が作成されている。そこでは①麻製品製造、②スフ製造、③絹紡績、麻紡績、④戦災工場の売却処分、という区分がなされた。①は旧帝国製麻、②は旧日本油脂繊維部、③は旧太陽レーヨンをそれぞれ復活・独立させるという計画である。その後の検討で①製麻部門、②スフ部門の二社分割案となり、GHQに提出された。持株会社整理委員会は二十四年七月十九日、亜麻繊維における生産能力全国比九九・六パーセント(昭22末)を問題とし「『帝繊』は、日本の亜麻工業において、競争を制限し、他のものが単独にこれに従事する機会を妨げうる生産能力をもつており、特に、亜麻繊維の生産地である北海道地区における原料支配により独占的能力をもつている」と認定し、次の三社に分割するという指令案を出した。
①第一の新会社…一二製線工場、札幌、鹿沼、鹿沼第二の三亜麻紡績工場など。
②第二の新会社…八製線工場、大津など三亜麻紡績工場、玉島絹紡工場。
③第三の新会社…徳島スフ工場など。
(日本財閥とその解体)

 帝国繊維が考えていた分割案は亜麻とスフとの分割、すなわち帝国製麻の復元であったが、指令案は亜麻紡績をさらに二分割するもので、八月九日に開かれた聴聞会では、社長、労働組合、部課長、金融機関、株主、北海道亜麻耕作者など一〇人が分割反対意見を述べ、副社長田村駒治郎(旧太陽レーヨン)一人のみが分割賛成意見を述べた。その後も亜麻事業の二分割に反対意見を集中し、陳情を重ねたが受け入れられず、二十五年一月二十日に決定指令が出され、二十五年八月一日分割を実施した。かくして①帝国製麻株式会社(資本金一八〇万円)、②中央繊維株式会社(資本金二四〇万円)、③東邦レーヨン株式会社(資本金一二〇万円)の三社が設立され、札幌工場、琴似製線工場はともに帝国製麻に所属した(帝国製麻株式会社五十年史)。
 終戦直後の帝国製麻(以下の記述では社名を帝国製麻に統一する)は、原料亜麻の確保に苦しんだ。軍需産業であった昭和十九年は亜麻栽培面積も最大となったが、戦後は食糧難のため食糧生産と競合し、二十六年の亜麻栽培面積は十九年の五二パーセントにすぎなかった(全国ならびに道内繊維事情)。不足分はベルギーから輸入している。亜麻耕作者に対しては、栽培を奨励するために「衣料還元」と称し、たとえば二十二年度には道庁、北農、帝国製麻と協議の上、作業衣を反当収量三二〇听(キン)(約一九二キログラム)ごとに五ヤールを提供している(帝国製麻札幌工場関係資料)。札幌工場は、「いわゆる原物、ズック類及び亜麻糸」を生産しており、加工度の高い織物は鹿沼工場など内地で製造している。札幌工場の月産能力は麻糸三〇万ポンド、麻織物一五万ヤールであり、従業員は男子二八五人、女子五九〇人、計八七五人であった(全国ならびに道内繊維事情)。なお、亜麻製品工場としてはこのほかに村上繊維工業(株)(北12西17)があった。