第九編 大都市への成長
第三章 札幌市の発展と街づくり
第三節 交通の再編と通信
二 鉄道と航空
定山渓鉄道は、三十三年慈恵学園駅、緑が丘駅、十五島公園駅を新設した。三十二年に国鉄の札幌駅に乗り入れ、三十四年からは十五島公園の整備などを行い利用客の増加をめざした(道新 昭33・11・3、34・4・1、4・5、6・16)。しかし札幌市の地下鉄の路線と競合するため四十四年十月鉄道部門を廃止した。定鉄(鉄道)の輸送成績は表14のようになっている。
昭和三十三年江別の商業会議所の議員総会で札幌江別間の電鉄敷設をめざすことが事業計画に織り込まれた。三十二年定鉄を傘下に入れて北海道へ進出してきた東急会長五島は、その構想を聞き上江別と札幌市大通西四丁目を結ぶ札幌急行として計画を具体化させた。この計画は認可の申請も行い、札幌市議会でもこの計画へ札幌市が協力することを了解していたが、三十五年認可申請を取り下げた(道新 昭31・12・17、32・9・5、34・7・18、35・6・24、えべつ昭和史)。 石狩町では町内を通る鉄道を切望していたが、昭和三十一年石狩鉄道株式会社が設立され、函館本線の桑園駅から石狩町への鉄道敷設を計画し、事業認可も受けた。しかし資金がなかなか集まらず、三十四年五月起工式だけ行ったが、三十六年になっても着工できず、結局挫折した(石狩町誌 中巻二、同下巻、道新 昭33・9・21、34・5・19、36・6・7、6・9、8・22)。 |