札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第5巻 通史5上

第九編 大都市への成長

第一章 戦後札幌の市政と行政

第二節 札幌市の拡大と市政

二 札幌市域の拡大

 戦後に札幌市が合併した周辺町村のうち、人口・面積ともに最大規模であったのが豊平町である。また、同町の合併には最も長い年月を要し、その過程は複雑な様相を呈した。
 豊平町の札幌市合併がいつから問題とされていたのかは明確ではない。昭和初期の段階で既に問題とされていたとも言われるが(豊平町史補遺 以下補遺)、戦後に限定すれば二十三年(一九四八)に、その最初の動向が見られる。既に前年の暮れから一月にかけて、「豊平町の市編入気運濃化」(道新 昭22・12・10)などとする報道があった。これらは、札幌地方総合開発協議会等において市の都市計画策定の作業の中から出た構想を伝えたものであった。そこでは、「できれば新年度を期して合併したい」という市長の発言が伝えられるなど(夕刊北タイ 昭23・1・22)、市側の積極姿勢が見られた。市では、同年七月に議員会の内部機構として豊平町併合調査委員会を設置している(十期小史)。
 これに呼応する形で、町側でも合併への意欲を見せた。同年十一月二十六日には、町議会に札幌市合併調査特別委員会が設置されている(補遺)。しかし、同委員会は開催されることなく終わった(同前)。市側でも、前記の委員会が二十四年に、「札幌市より積極的なる運動は起さないことに決定」し(札幌市議会情報 八号 昭24・7・15)、この時点で合併問題は一時沙汰止みになった。
 次に具体的な動きが見られたのは、二十七年(一九五二)である。前述のように、この年の九月、札幌市議会に境界変更調査特別委員会が設置され、豊平町・琴似町・札幌村を対象とした調査を始めた。豊平町でも、同年十二月七日、豊平町と札幌市の合併に関する決議案と合併調査特別委員会設置に関する建議案が町議会に提出された。前者は保留されたが、後者は可決され、豊平町境界変更調査特別委員会が設置された(補遺)。同委員会は、翌二十八年初頭以降、合併に関する調査を行った。
 二十九年(一九五四)二月十日、同委員会は町議会において中間報告を行った。ここでは、「未だ調査の結論を得るに至らないので今後もさらに調査継続を遂ぐべき」との意向を示したのみで、明確な結論は出さなかった(豊平町と札幌市の境界変更に関する資料 以下豊平境界資料)。同年三月二十日には、境界変更調査特別委員会は廃止され、新たに豊平町札幌市合併調査特別委員会が設置された。これは、「境界変更」という曖昧な字句ではなく明確に「合併」を打ち出した名称にすべきとする考えに基づくものであった(補遺)。ただし、同委員会の設置には反対意見もあった。この時点で、合併に対して積極的な議員と消極的な議員の存在が明確になり、対立を示し始めていたのである。
 一方、札幌市議会では、二十八年十二月二十二日、前述のとおり境界変更調査特別委員会が札幌村・琴似町・豊平町を合併すべきであると決定したうえで解散し、新たに隣接町村合併促進特別委員会が設置された。
 昭和二十九年四月七日、豊平町の町長ら理事者が札幌市を訪れ、市理事者との間に懇談会をもった。この席で、山田為吉町長は合併に対する消極的姿勢を強く示した。合併は「無理にやるべき性質のものでは」ない、「何も苦しんで頭を下げてまで入つていく必要がない」等の発言を繰り返した(豊平境界資料)。町側の合併をめぐる意見の対立は、議会内のみならず理事者の間にも存在したのである。豊平町札幌市合併調査特別委員会は、同年十一月十五日に調査報告を行ったが、そこでは委員会としての見解は示されなかった(豊平境界資料)。この時点では議会内の見解を統一することができなかったのである。
 これに対し、市側では二十九年五月二十九日に特別委員会の中間報告で「静観」の姿勢を示した(前述)。翌年一月八日の琴似町合併を議決した市議会では、豊平町との合併の気運は熟してないとの特別委員会の報告がなされたうえ、同委員会の廃止が決められた(十期小史)。再び、合併問題は頓挫をきたしたのである。
 この頃から、町民の間にも合併に対する賛成・反対それぞれの運動が見られ始める。合併を促進しようとする運動の代表的な存在が、豊平町札幌市合併促進期成会である。同会は、三十一年(一九五六)一月十八日に設立町民大会を開いた(補遺)。また、合併に反対する運動としては豊平町振興研究会があり、同年三月十一日に発足している(道新 昭31・3・12)。どちらの側もこれ以降、集会・署名・市町両議会への請願などの運動を繰り広げる。このような運動が活発に展開されたことが、豊平町合併過程の大きな特徴の一つであった。同年三月十五日、合併促進期成会は市町両議会に、一万一五五五人の署名を添えた早期合併を求める請願を提出した(豊平町札幌市合併に関する記録並びに資料 以下記録並資料)。市議会はこれを総務委員会に付託し、同委員会はこれ以降豊平町の状況を審査することとなった(十期小史)。
 また、町側でも同年四月十三日、町議会に自治振興調査特別委員会を発足させた。同委員会の活動は合併に関する調査を主としており、市の総務委員会との懇談も行った(補遺)。同委員会は、昭和三十二年(一九五七)一月十七日、「本町と札幌市とは合併すべきであると考えられるが、その時期ならびに方法等についてはさらに今後も充分研究を要する」とする最終的な結論を出した(広報とよひら 八一号 昭32・1・26)。豊平町側の合併に対する態度は、この時点でも玉虫色であった。
 同年六月の豊平町長選挙で、このような町側の曖昧な状況が大きく変わることになる。この選挙に立候補したのは、現町長山田為吉と、合併促進期成会も推す合併促進派の町議本間義孝であった。二十三日の投票の結果、本間候補が当選した(道新 昭32・6・25)。本間新町長は、就任直後の同年七月十三日、広報『とよひら』八九号に「就任に当り町民の皆様え(ママ)」と題した文章を掲載した。その中で、合併に対する積極的な姿勢を打ち出し、三十四年をその目標とするとしたのである。
 新町長の就任によって、町側の合併への気運は高まった。同年九月三十日、町議会に豊平町札幌市合併調査特別委員会が設置された(記録並資料)。市側でも、既に九月二十五日の市議会において、先に期成会によって提出されていた請願を総務委員会の報告通り採択した(十期小史)。十月一日には、豊平町との合併に関する調査のための合併調査特別委員会を市議会に設置した(札幌市議会報 一〇巻四号 昭32・11・30)。その後、二つの委員会はそれぞれ調査を行い、合同会議を開くなど、市町ともに合併への動向を見せた。
 町の特別委員会は、三十三年(一九五八)三月十二日に第一回の中間報告を、同年六月十八日に第二回中間報告を、それぞれ町議会に対して行った。前者は「合併の時期は、一応町長の方針であるところの昭和三十四年三月が適当」とし、後者は「三十四年三月一日合併の実現を期するためには、……、おそくとも本年九月の定例議会に於て豊平町、札幌市双方が合併のための意見書を議決する必要がある」、と結論付けた(記録並資料)。これらの報告はいずれも町議会において満場一致で可決された。また、同年八月二十三日には、第一回札幌市・豊平町首脳者会談が開催され、市町の理事者の間で合併問題について協議された。ここでは、「合併という基本方針」と「三十四年三月一日を目途とする」ことで意見の一致を見た(記録並資料)。これ以降、首脳者会談は続けられ、合併条件が詳細にわたって協議された。これらは、最終的に同年十二月二十三日、「札幌市と豊平町が合併するに際し札幌市より豊平町に対する覚書」(二〇項目)として市町間で取り交わされた。合併への道筋は、大きく進展したものと思われた。
 このような情勢を受けて、先に設置された豊平町札幌市合併調査特別委員会は、同年十二月十六日に委員会を開催したが、結論を出すことができなかった(補遺)。結局同委員会は、二十三日の議会に対して、「結論を出すに至らなかつた」とする最終報告を行った(豊平町と札幌市の合併に関する資料)。一時沈静化したかに見えた町議会内の合併賛成派・反対派の対立が、ここで再び顕在化したのである。特別委員会の最終報告が行われたのと同日、町長は町議会に二〇項目の合併条件を示すとともに、合併議案を上程した。これは、賛成一二・反対一六で否決された(記録並資料)。ここで三たび、合併の実現は潰えたのであった。
 この状況は、それまでも活発であった町民の運動、とくに合併推進派のそれをさらに活性化させることになった。この時期は、とくに婦人層の運動が活発化した。三十四年(一九五九)一月二十三日には、札幌市との合併の促進を訴える婦人大会が開かれた(道新 昭34・1・24)。同日、参加者らは新たに合併議案を審議してもらいたいという趣旨の陳情書を町議会に提出した(記録並資料)。このような状況を受け、同年二月十四日の町議会は合併議案を再審議した。しかし、ここでも議案は否決される(補遺)。
 合併問題の停滞した状況を大きく変えたのが、同年四月三十日の町議会議員選挙である。この選挙は札幌市との合併の賛否が大きな争点となり、「いわば合併の賛否を全町民の直接投票に附したかとも見られる選挙戦」となった(豊平町の札幌市合併関係資料)。この選挙の結果、町議会の合併賛否の勢力分布は逆転した。「新議員三十人の色分け」は「賛成派は二十人」「反対派十人」となった(道新 昭34・5・7)。これ以降も両派の対立は続くが、賛成派が主導権を握る形で事態は推移する。改選後の町議会は、六月二十日に豊平町札幌市合併特別委員会を設置した(補遺)。同委員会は精力的に調査を進め、同年十二月十六日には合併の時期を三十六年三月とする中間報告を町議会に行った。
 これまでの経緯から慎重な態度を見せていた市側も、町側の合併への意志が決定的となったと判断し、積極的な姿勢を示し始める。三十五年(一九六〇)七月二十六日の市議会総務委員会は、改めて札幌市と豊平町との合併問題について審議を始めた(道新 昭35・7・27)。同年十二月二十五日には、札幌市議会に札幌市と豊平町との合併に関する調査特別委員会が設置された(十期小史)。
 合併へ向かって状況が進展を見せる中、今度は合併に反対する勢力が様々な動きを見せる。三十五年八月二十二日、合併反対派議員は札幌市議会の総務委員会の各委員に合併反対の「参考文書」を配布した(豊平町の札幌市合併関係資料)。また、同年十一月二十一日には市長・市議会に対して文書を配布し、その中で「場合に依つては拙者等職を通(ママ)しても合併を絶対阻止する」と述べていたのである(同前)。
 三十六年(一九六一)二月一日からは、前回と同様、首脳者会談が開かれた(札幌市豊平町合併に関する首脳者会談概要記録)。同年三月一日の会談では、二月十六日付けで豊平町より提出された「豊平町と札幌市との合併についての要望書」を市側が受け入れることを了承し、合併の期日を三十六年五月一日と決定した(同前)。
 同年三月十日、町議会が開会され、十四日には合併議案が上程された。この議会の間、合併の賛否をめぐる町内の混乱は頂点に達した。十日には、「反対派住民が町議会議場になる月寒会館前にピケ・ラインを張って賛成派議員の入場を阻止、警官隊が実力で排除して、ようやく開会する騒ぎ」となった(道新 昭36・3・11)。十四日にも、「賛成派議員二十人は十三日夜こっそり〝おしのび〟で議場の月寒会館にろう城」して開会を準備し、開会時には「反対派町民約百五十人」が「〝合併絶対反対〟のプラカードをかかげて賛成派のピケ隊と衝突、…、一時小ぜり合いとなった」のである(道新 昭36・3・14夕)。こうした混乱の中、合併議案は賛成一八・反対一〇で可決された(札幌市・豊平町配置分合申請書)。同日、札幌市議会でも合併議案が満場一致で可決されている。
 三十六年五月一日をもって豊平町は札幌市に合併され、ここに「大札幌」はその市域および規模をさらに著しく拡大したのであった。