札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第4巻 通史4

第八編 転換期の札幌

第九章 大衆文化・モダニズム・文化統制

第四節 文化の諸相

二 演劇・映画・漫画

 表6~9は、『北海道庁統計書』から作成した札幌の諸興行にかかわるデータである。
 表6は、入場料が徴収された札幌警察署管内の演劇および諸興行の上演延べ日数(非営業のデータは別にある)である。札幌警察署管内は、札幌市、豊平町札幌村、白石村藻岩村円山町琴似村、篠路村、手稲村、広島村、恵庭村、千歳村の市町村を含む。大正十一年に延べで二〇〇〇日、上映された映画は、日中戦争がはじまる昭和十二年には三倍の約六〇〇〇日となっている。演劇の延べ日数は、昭和六~八年に四〇〇日を超えている。浪花節・浄瑠璃は大正から昭和にかけて漸減している。ここでいう演劇とは、数の上では新劇よりも圧倒的に伝統的な歌舞伎・芝居の類が多かったであろう。そして興味深いのは、曲馬、曲芸、剣舞、奇術、相撲とその多彩な大衆芸能のありようである。こうした見世物、大衆芸能は、季節としては集中的に、札幌祭の時にジンタの音とともにやってくる。表6をみると、見世物は大正期から昭和初年にかけて、五分の一ほどに激減している。
表-6 札幌警察署管内の演劇および諸興行の上演延べ日数 (営業)
活動写真演劇浪花節浄瑠璃琵琶歌剣舞又手踊曲芸又手品曲馬又競馬角力見世物演芸会歌曲講談落語其他
大11
 12
 13
 14
 15
昭 3
  4
2,281
2,943
2,401
2,000
1,916
3,374
3,460
69
141
108
285
193
362
312
139
163
128
124
116
115
135
35
34
24
35
39
28
37
4
6
6
9
7
26
25
3
5
15
10
5
2
12
13
18
15
6
7
7
7
8
6
6
133
163

141
25
26
26
18
14
13
32
52
25
21
56
76
195
131
134
113
116
203
195
142

8
32
29
活動写真演劇浪花節浄瑠璃琵琶剣舞手踊曲馬曲芸魔奇術手品落語和洋音楽演芸興行其他観物興行其他
昭 5
  6
  7
  8
  9
 10
 11
 12
3,643
3,826
3,625
3,599
4,578
4,769
4,678
6,043
340
453
419
424
219
197
199
240
101
122
102
124
37
39
47
95
31
24
6
9
18
17
13
4
12
26
40
14

10
19
11
15
7
21
23
24
18
7
8
34
32
48
41
35
23
8
38
59
46
52
49
43
16
4
18
36
43
48
38
31
41
28
18
12
28
32
11
27
27
24
5
139
162
142
18
41
41
29
35
20
32
41
30
30
7
5
26
1.札幌警察署管内(札幌市,豊平町札幌村,白石村藻岩村琴似村,篠路村,手稲村,広島村,恵庭村,千歳村)。
2.『北海道庁統計書』より作成。

 この問題は、大正十一年十一月十九日に北海道庁令「興行場及興行取締規則」が定められ、「公安ヲ害シ風俗ヲ紊ス虞アル言辞、所作、扮装其ノ他ノ行為」が厳しく取締まられ、さらに大正十三年三月七日には、演劇興行が常設の劇場以外では禁じられたことと関わるだろう(北海道庁公報)。昭和二年の札幌祭のお祭興行では、拳闘柔道試合や松村曲馬ほかの見世物において、興行師が入場料以外に仲銭をとったとして、興行取締規則に違反し一〇円の罰金を科せられている(北タイ 昭2・6・17)。なお戦時下の昭和十五年五月二十二日には「興行取締規則」が改正されている。
 表7、札幌警察署管内の活動写真・演劇・寄席(演芸)の延べ入場者数からは、活動写真の隆盛と演劇の衰退が読み取れる。郡司正勝が回想するように、大正期の子供時代に札幌劇場(南3西1)などに出入し、札幌のあちこちで様々な歌舞伎や芝居が行われ、芝居が身近にあった。こうした状況は、昭和に入って変化してゆくのである(私のなかの歴史 飯塚優子 札幌と演劇)。このことは表9で、大正十二年に男二九人、女四人いた俳優が昭和八年には〇人になっていることから明瞭である。札幌の劇場にいた座付きの役者が昭和にはいなくなるのである。札幌で最初の芝居小屋である秋山座(明4創設)を引き継ぐ大黒座には座付きの役者もいたが、大正七年に錦座と改名され、映画常設館になる。大正後期の芝居小屋は、大正十年から十二年まであった西田座(南5西4)と、須貝富蔵の経営する札幌劇場であった(中村美彦 札幌最初の劇場・秋山座、杉本実編 札幌の劇場の記録)。
表-7 札幌警察署管内の活動写真・演劇・寄席 (演芸) 入場数
活動写真演劇寄席(演芸)
大11642,799人122,886人51,088人
 12
 13
 14
 15
昭 3
  4
  5
  6
  7
  8
  9
 10
 11
 12
 13
 14
 15
 16
789,682
820,704
976,445
1,062,350
1,184,310
1,093,877
1,476,396
1,479,140
957,766
1,086,800
1,564,875
2,111,138
1,754,040
2,120,452
2,872,165
3,410,420
3,417,334
3,647,702
257,912
277,088
130,136
120,730
169,251
113,467
145,577
91,283
107,577
161,744
110,676
116,946
89,850
82,448
42,978
42,757
40,862
68,096
100,023
217,252
103,445
116,000
119,251
114,839

121,955
119,228
65,046
103,115
127,917
118,910
103,402
46,961
75,101
76,784
115,218

 なお表9の大正十二年に札幌で男女合わせて一九人いた法貝(界)節の遊芸稼人とは、筝、三味線、太鼓などの奏者が派手な印半纏で門付けした芸人であった(日本国語大辞典)。遊芸師匠の内では、三味線が減り、踊りの師匠が増えている。
表-9 札幌警察署管内の遊芸人調
遊芸師匠
三味線尺八薩摩琵琶筑前琵琶其他
大12
昭 8
1
2
7
16
3
0
45
29
2
0
15
27
14
14
0
0
5
7
0
1
6
3
0
1
21
17
9
6
52
43
76
80
遊芸稼人其他
義太夫落語浪花節源氏節法貝(界)節其他角力俳優
大12
昭 8
5
1
3
4
1
0
0
0
7
5
1
0
1
0
0
0
15
0
4
0
6
0
2
0
35
6
10
4
2
0
29
0
4
0
1.札幌警察署管内(札幌市,豊平村札幌村,白石村藻岩村琴似村,篠路村,手稲村,広島村,恵庭村,千歳村)。
2.『北海道庁統計書』より作成。

 表8、札幌警察署管内の人口一〇〇人に対する入場数の統計からは、一人当り年間何回くらい映画や演劇を見たかがうかがえる。大正十一年に一人当り年に三回みていた映画は、昭和十四年には年間一人でなんと約一三回も観るのである。これは子供や老人も含めての数であるから、若者の回数は驚くべきことが推測される。まさに映画は娯楽の王者であった。
表-8 人口百人に対する入場数
活動写真演劇寄席(演芸)
大11
 12
 13
 14
 15
昭 3
  4
  5
  6
  7
  8
  9
 10
 11
 12
 13
 14
 15
 16
310
444
452
504
531
541
485
632
602
386
427
606
801
623
754
1,015
1,296
1,188
1,229
71.7
145
150
670
60
77
50
62
37
43
63
43
44
32
29
15
16
14
22
29.87
56  
120  
53  
58  
55  
105  

50  
48  
26(25)
40  
49  
42  
36  
16  
28  
26  
38  
1.札幌警察署管内(札幌市,豊平町札幌村,白石村藻岩村円山町琴似村,篠路村,手稲村,広島村,恵庭村,千歳村)。
2.『北海道庁統計書』より作成。

 ここで留意すべきは、日中戦争下で映画の観客動員数が最高になる現象である。更科源蔵がいうように、単に麻雀など他の娯楽が禁止されたことが要因で「映画館への殺到」が起こったのではないだろう(北海道映画史)。第四章四節図9で明らかなように、日中戦争勃発から昭和十五年まで狸小路のビヤホールの売上は伸び続け、またツーリズムも全国的には盛況であった。そして時期的には後になるが、昭和十八年の正月の様子を伝える記事で、「都市の料亭、カフェーは言語に絶した繁盛ぶり」を示したという(道新 昭18・1・9)。これらのことを考えると、日中戦争下の映画の盛況は、従来の文化・娯楽の戦時統制論では解けない課題である(文化とファシズム)。
 一方、表8から演劇(営業)は大正十四年に一人当り年間約七回観ていたのが、日中戦争期には年間、五~六人に一人が観劇するにすぎなくなる。
 また周辺農村の素人の地芝居の篠路歌舞伎(非営業)も、大正十年に回り舞台つきの烈々布倶楽部を完成させた頃を頂点に、昭和に入ると陰りをみせる。周辺農村では祭典余興に映画上映が激増し、「娯楽面ではラジオの出現や、交通網の充実で札幌に出かけ手軽に映画を楽しめる」状況となる。青年層が歌舞伎から離れ、昭和九年十一月二十三日の花岡義信(大沼三四郎)の引退興行を最後に消滅する(中村美彦 篠路歌舞伎ノート)。

写真-11 花岡義信引退興行(篠路歌舞伎,昭9.1.23)