札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

新札幌市史 第4巻 通史4

第八編 転換期の札幌

第七章 社会生活

第五節 太平洋戦争下の市民生活

三 戦時生活の諸相

 二十年三月の東京大空襲からはじまった米軍の大都市空爆は、さらに地方都市とその周辺へとおよんできた。札幌も六月末から連日のように空襲警報が発令されるようになった。七月十四日払暁、米空母(一三隻)から発進した艦載機グラマン等は、全道各地を八波にわたり攻撃、翌十五日夕方までに道内六八市町村が被害を受け、一五〇〇人以上が死亡、七〇〇人以上が負傷する一大惨劇をもたらした。七月十四、十五日の米軍による空襲では、札幌札幌村丘珠において、陸軍の飛行場とその周辺の農地に機銃掃射と爆撃が、また同郡手稲村軽川(現札幌市手稲区)の石油タンク等の爆撃、同郡白石村(現札幌市白石区・厚別区)の白石駅付近の機銃掃射を受け、丘珠では農家の父子が死傷した(図4参照)。

図-4 丘珠空襲関係図
地図は昭和57年3月当時のものを使用した。
林恒子「札幌空襲の実態」(札幌の歴史 第2号)より作成。

 「丘珠空襲」を調査した林恒子によれば、十五日朝、丘珠中央農事実行組合長をしていた坂東喜三郎(きさぶろう)家に機銃弾五〇発余りがうちこまれ、茶の間に飛び込んだたった一発の銃弾で喜三郎(55)が死亡、次男嘉治(よしはる)(18)が負傷した。当時二〇歳だった三女英子によれば、当日警戒警報が空襲警報に変わった間もなく、一〇機前後のグラマンに襲われ、四〇坪をこえる八室ほどの平屋建の家は、玄関や茶だんすのガラスは破られ、あちこちの柱やトタン屋根、壁につるした絆てんさえもメチャメチャにうちこまれて穴があいたそうである。亡くなった喜三郎は、一発の銃弾が右肩から左脇下へと貫通していた。
 坂東家がなぜこのような激しい攻撃を受けたのかについては、坂東家が当時飛行隊の通信隊宿舎に使われていた丘珠神社社務所と飛行場との中間に位置しており、たまたま宿舎から飛行場へと食器を運搬する兵隊がいたため、それを狙い撃ちした機銃掃射が坂東家に集中したと考えられている。爆弾は飛行場に三個、周囲の農家に四個投下された(林恒子 平和と平等を求めて)。このほか札幌周辺では、札幌郡江別町や石狩郡石狩町(現石狩市)でも空襲を受け、江別町では死者三人、重軽傷者八人を(えべつ昭和史)、また石狩町では死者一三人、重軽傷者一三人を(ハマナスのかげで)出す一大惨事となった。
 札幌市では、空襲に備えて家庭防空壕や待避壕の建設をいそいだり、学童に縁故疎開をすすめていたが、八月十日には老幼者、妊産婦などの強制疎開に踏み切った(道新 昭20・8・10)。また、空襲に際して市中心部では建物疎開も二十年四月と七月の二回にわたって強制的に行われ、市内白石町(南一条橋付近)一帯と、南四条西五~一一丁目におよぶ広い地域では実行に移されていた(昭和20年の記録 さっぽろ文庫14)。やがて八月十四日、日本はポツダム宣言受諾を決定、八月十五日正午、戦争終結の詔書が放送され、敗戦を迎えた。
 ところで、米軍による大都市への度重なる空襲、さらに地方都市とその周辺への空襲、八月六日の広島市、九日の長崎市への原子爆弾の投下、その前日のソ連の対日宣戦布告と、客観的には札幌市民に物理的にも精神的にも日本の敗北を実感せしめるに足るものであった。しかし、一体札幌市民のどれだけが「八・一五の敗戦」を予感できたのであろうか。このことは次のような問題とも共通している。すなわち、二十年八月十四日の『北海道新聞』は一面トップに「外蒙より南下中の機甲部隊を痛爆」「果敢に激撃」という記事を掲げたが、翌二十年八月十五日の同紙は同じく一面のトップで、「聖断厳かに下り戦ひ局を結ぶ」「苦難固より尋常にあらず/総力将来を建設せよ/大詔を渙発/新覚悟御明示」「共同宣言を受諾」とする記事を掲げ、ポツダム宣言受諾による戦争の終結を報じた。札幌市民はこの二日間の『北海道新聞』の記事のギャップを整合的に理解できたことであろうか。ともあれ満州事変以来一五年にわたる戦争は日本の敗戦によって終結し、札幌市民は八月十五日を迎えたのであった。